イベント・シンポジウムなど

三国歴史を生かす街づくり文化フォーラム2007

2007.11.01  by

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趣旨

北前船の寄港地として栄え、今なお民家やその町並みにかつての歴史文化を残存させている福井県三国町において、歴史・文化を生かした町づくり、民家の保存・修復そしてその活用が行われている。 平成18年度に引き続き、 三国の歴史文化の深層を再発見する第二回目の文化フォーラムを行い、三国湊における地域活性化活動の新たな可能性を探求し、歴史的な町並みや民家、文化的 景観の保存と活用を促進する事を目的とする。合わせて三国の現在の民家・町並みの調査・報告書作成・発表も行い、今後の街づくりの活動の基礎としていく。

概要

日時=2007年11月23日(祝)  開場13:00〜
基調講演=13:30〜14:00  パネルディスカッション 14:00〜16:00

会場=みくに文化未来館
入場=無料 チラシダウンロード=こちら(pdf 1.2MB)

主催=NPO法人三国湊魅力づくりPJ
共催=みくに歴史を生かすまちづくり推進協議会
後援=福井県・坂井市・福井新聞社
助成=芸術文化振興基金

プログラム概要

1部…基調講演 13:30〜14:30

「歴史文化の活かし方−美しい風景の演出のために−」

講師=宗田好史氏(京都府立大学 准教授・工学博士)

2部…パネルディスカッション 14:30〜16:00

「みくに歴史文化の深層とその魅力」

司会=大和久米登(NPO法人三国湊魅力づくりPJ副理事長
パネラー=宗田好史氏(京都府立大学 准教授・工学博士) 倉橋宏典氏(株式会社都市環境研究所) 笠島秀雄氏(坂井市商工会副会長) 堀直子氏(小松市民ミュージカル劇団リトルパインシアター主宰)

出演者プロフィール

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宗田好史氏(京都府立大学 准教授・工学博士)

1956年(昭和31年)浜松生まれ。 法政大学工学部建築学科卒業、同大学院を経て、イタリアピサ大学・ローマ大学大学院にて都市・地域計画学専攻、歴史的都市保存計画、景観計画、都市商業政 策の研究。歴史都市再生政策の研究で、工学博士(京都大学)。国連職員を経て、1993年より現職。国際記念物遺産会議委員、東京文化財研究所客員研究 員、日本風景街道近畿地区研究会委員長など。
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倉橋宏典氏(株式会社都市環境研究所)

1978年三国町生まれ。 株式会社都市環境研究所 研究員。東京大学工学部都市工学科卒業後、2005年3月東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻修士課程修了。専門は、都市デ ザイン。地域の伝統や歴史文化、風土に根ざした都市の空間計画がテーマ。卒業論文で三国湊地区の歴史的町並み文化調査とまちづくりプランを構築し、その研 究は、現在地域住民が取り組んでいる景観デザインの土台となっている。
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笠島秀雄氏(坂井市商工会副会長)

1949年三国町生まれ。 中央大中退、放送大卒業、同大学院で政策経営を学ぶ。福井県庁で10数年勤務後、家業(株)笠島を継ぐ。現在、(株)笠島 代表取締役、みくに歴史を生かすまちづくり推進協議会会長、坂井市商工会副会長(前三国商工会会長)。また、blog「越前三国湊の散策日記」を展開し、 三国湊の日常や歴史文化をあたたかく細やかに紹介し、大好評を得ている。
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堀直子氏(小松市民ミュージカル劇団リトルパインシアター主宰)

石川県小松市在住。三国町生まれ。 東京女子大学短期大学部卒業後、(株)CBSソニー入社。イギリスのオックスフォードに留学、文化人類学、女性学を学ぶ。帰国後、通訳・翻訳を通じて日本 と海外の交流に携わりながら、市民ミュージカル劇団リトルパインシアターを創立。18年間にわたり毎年1作のペースで公演を行い、石川県、小松市の地域文 化活性化活動を精力的に行っている。
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大和久米登(NPO法人三国湊魅力づくりPJ副理事長)

1955年三国町生まれ。 関西学院大学中退。地元商店街の専務理事を務めた事を機に、求心力を失っていく地元の街を再生する道を探り始め、三国でまちづくり活動を展開。商工会、観 光協会、各種団体の連携による「みくに歴史を生かすまちづくり推進協議会」の発足・発展に尽力し、国土交通省編の「地域いきいきまちづくり-100-」に 紹介される。まちづくり会社「三國湊座」を創設。現在、坂井市議会議員、NPO法人三国湊魅力づくりPJ 副理事長。

レポート

1部…基調講演 13:30〜14:30「歴史文化の活かし方−美しい風景の演出のために−」

講師:宗田好史氏(京都府立大学   准教授・工学博士)

総合司会: それでは時間になりましたのでシンポジウムを始めさせていただきます。皆様最後までご清聴いただきますよう宜しくお願い申し上げます。 それでは只今より宗田好史先生による基調講演を始めさせていただきます。宗田先生は、イタリアのピサ大学、ローマ大学大学院において長年にわたり歴史都市 再生政策をご研究なさり、国連職員を経て、現在は京都府立大学で准教授を勤められていらっしゃいます。NPO法人三国湊魅力づくりPJが実施しています事 業「三国湊まち・海・緑・そしてひとを結ぶ道」がその一つとして正式登録されました「日本風景街道」の近畿地区研究会委員長も務められていらっしゃいま す。昨年はその視察のために三国までお越しいただきました。ご専門は歴史・自然環境を生かした町並みの再生、文化遺産の保存と文化的観光について、そして 町並みを生かす交通計画のあり方について、など多岐に渉るものでございます。 本日は三国湊の今後のまちづくりの展開に向けて、大変に貴重なお話をお聞かせくださると思います。それでは宗田先生、よろしくお願いいたします。

宗田氏

京都の宗田でございます。大層なご紹介をいただきまして、困っております。 今日このようにして三国湊の皆様にお話させていただくきっかけは、先ほどご紹介いただきました「日本風景街道」というものでございます。これはどういうも のかと申しますと、国土交通省の道路局が、戦後60数年にわたって日本に様々な道をつくってきたのですが、高速道路が日本全国津々浦々に張り巡らされたと はいうものの、これを中心とする国土づくりが日本の風景を台無しにしてしまった。だからこれからの道づくりは風景を壊すのではなくて、風景を守る、あるい は美しくつくり直すというような視点で、全国の道を見直していこうというものです。まずそのなかで全国の美しい風景をもった街道を選び、そして国だけでな く地元の皆さん、とりわけNPOのみなさんと美しい風景づくりを進めていこうとしております。 今日はその話を織り交ぜながら、シンポジウムが「歴史を生かす街づくり文化フォーラム」ということですので、歴史、文化、芸術を活かすとはどういうことかについて、お話させていただきたいと思います。 お話したいことは三点ございます。

今、人々は歴史に何を求めているのか。

21世紀初頭の今日、日本人は歴史に何を求めているのか。あるいは日本人は歴史を見る眼をどう変えてきたのか。歴史は変わらないものの我々は変わる。だから歴史をどう生かすかということも変わります。

歴史を生かすとはどういうことか。

つまりどのような歴史的環境が人々に喜んでもらえるのか。これはマーケティングに関わることです。観光ありきの地域で歴史環境をどう生かすかということについてお話したいと思います。 最後に、

歴史と文化を支える人々、町並み・景観をどう演出するか、誰が演出するのか。

についてお話したいと思います。 まず京都からやってきましたので、京都の観光の事例をお話させていただきます。

京都には世界文化遺産に登録された17の社寺がございます。それらが京都の最も中心的な歴史文化遺産ですが、そのほかにも多様な文化遺産があります。祇園 祭もありますし、いまの季節ですと紅葉です。そして雪、桜がございます。自然であり、伝統文化や民俗芸能も京都の資産です。 では京都の観光についてはどうかといいますと、京都市は日本最大の観光都市でありますので、昭和24年から観光統計を取っています。これを遡ってみます と、1975年まで京都への観光客はずっと増えていました。それがその後、2000年までは横ばい状態、なかなか増えません。そして、2001年にアメリ カで同時多発テロが起こった時期から急速に増加し始め、まもなく5,000万人に達しようとしている。実はこの停滞していた25年間の間に様々なことが起 こっております。 まずなぜ停滞したかと申しますと、日本からの海外旅行者と関係があります。ちょうど50年程前までは観光といえば京都でした。それが後にはハワイ、グア ム、アメリカ西海岸、さらに広がってヨーロッパへと海外旅行者が増加しています。ずっと停滞していた間に何が起こったかというと、京都を見る眼が変わった のです。1975年当時に京都へ来る人は、ほとんど海外を知らなかったのですが、2000年から現在まで京都に来るお客様の七割は、一度や二度は海外を見 たことがある人です。つまり町並みが保存され活用されるヨーロッパのなどと比べて、京都の町並みが非常に貧弱だという眼を持つようになったのです。 それからもう一つの大きな変化はお客様の高齢化です。1975年当時の観光客は10-20代で大半を占めている。その後若い層は減少し、平成6年からは 40-60代が圧倒的に増加します。この観光客の年齢層の推移は、団塊の世代がそのとき何歳だったかということに一致しています。これまでの観光地とは異 なる少し奥まった鄙びたところに来た人が、アンノン族と呼ばれる人たちです。いまこの方々は50代終わりにさしかかり、完全にお子さんの手が離れたため、 また増加しているわけです。 もうひとつ大事なことは、1987年を境に女性の観光客は倍増、男性は減少していることです。京都を訪れる観光客は圧倒的に女性が多いのです。ところで 最近になって増加に転じた男性層は「わしも族」と呼ばれます。女性と一緒に「わしも連れていって」というわけです。残念ながら今50代以上の男性の方で奥 様に「わしも!」といえる方は少ない。固定観念に囚われていると申しますか、これが社会問題とされるのは、こうした男性が60-70歳になってくると、社 会に出て行こうとせず、いわゆる男性のひきこもり現象が起こるからです。すでに大阪の近郊の団地では問題になっております。 問題にしたいのは女性のお客様です。なぜこれほど女性が京都に来るようになったか。今、全国の観光地で中高年の女性が増えているところは成長している が、増加していないところは伸び悩んでいる。20年前の男女雇用機会均等法によって社会進出した総合職の女性は、今では40代、課長クラスになっていま す。この年代の女性は結婚することも少ないし、大半が都会に住んでいる。そして都市と農村の開きも、都市では女性に働く機会が均等に与えられているのに、 農村では行われていないことが影響している。女性は自分を活かすことができる都会を選択したというわけです。女性が新たな観光マーケットに加わったことに よって、会社も変わり、社会も変わり、観光地も変わった。以前のような社員旅行というものは姿を消し、女性が少人数で旅行するようになった。そして今京都 の観光マーケットを席巻しているのです。 では彼女たちは何を求め、どこを旅するのか。京都を例にとってみましょう。清水寺、嵐山、金閣寺は、昭和50年前後は集客力において対等な競争をしてい た。その後、清水寺は伸びました。しかし嵐山、金閣寺は振るいません。なぜか。清水寺周辺は中高年女性のリピーター客が多いからです。 では、そもそもなぜ清水寺周辺がいいのか。注意していただきたいのは、「清水寺」がいいのではありません。その「周辺」がお客様を呼んでいるのです。清 水寺へ向かう手前に「伝統的建造物郡保存地区」、いわゆる町並みを保存している地区があります。さて、ここからが大事なのですが、この地区は町並みを 「守っている」のではありません。「活用している」のです。 何がいいたいのかと申しますと、この地区はもともと住宅の中に小さな骨董品屋が並んでいるようなところでした。今は、かつて老舗料亭だった青龍苑坂口を 始め、京都を代表する七店の老舗がずらっと並び、100%京都の一大観光地型ショッピングセンターとなっているのです。料亭坂口時代には通常で一日30人 のお客が入りましたが、ちょうど今のシーズンは28,000人の客が訪れます。たとえ安価な商品でもこの規模で人々が出入りするとすれば、かなりよいビジ ネスになります。この新しい観光地に対して、いわゆる「料亭」は男性客や接待の機会の減少によって振るいません。 京都市は、この狭い地区に膨大な「町並み修景助成」を出しています。つまり町家の景観を修理するために、瓦屋根・格子・出窓をつけてくださいと最高 600万円まで無償の補助を行い、町並みを保存しているのです。産寧坂周辺はとりわけこの修景が多い。なぜか。町家の軒数も多いのですが、何といっても改 装の頻度が高いからです。4,838万人の観光客のうち、たった100万人の修学旅行生のために、修景する必要はありません。ターゲットは中高年の女性で す。彼女達の求めるものは、白木のテーブルがあり、お昼から冷酒一本でも呑めるような、そんな落ち着いた割烹、会席料理のお店。靴を脱いでお座敷にあがる ほど時間はかけられないけれども、一つ一つ料理の説明をしてくれるような、そんなゆったりした空間です。そのような中高年の女性に合わせて町並みが活用さ れています。

現在では飲食店が増えすぎまして、古美術のお店が増えてきたのですが、女性のお客様には自分にご褒美をあげるという習慣があるようです。仕事で頑張っても 誰も褒めてくれないので、京都に来た帰りには、ちょっと高いお茶碗やお急須を買って帰ろうかという気持ちになるのです。我々男性にはあまりないことかもし れませんね。京都市内での消費行動の統計もあります。4年前にお土産に支払う額を飲食に支払う額が上回ったのです。お土産を買わなくなったのはなぜか。 買っていく相手がいないからです。マンションにお住まいで隣付き合いもなければ、買っていくとしても極限られた少数の人。ですから、同じ箱に入った同じ味 のする八ッ橋を10箱も20箱も買っていくことはなくなりました。そして例えば漬物を買うとしても千枚漬け、すぐき漬け、しば漬けという京都の三大古典漬 物は売れず、ふつうの白菜、茄子、胡瓜が売れる。それで一食助かるからです。さらに高価なものとなると、茶碗、帯、織物などが売れます。 こうしたマーケットの変化に合わせて当然お店も変わってくるわけであります。この大きな流れを上手に捉えているのが、京都の「町家再生店舗」というもの です。12年前に京都の町家を調査したところ28,000軒ありました。それが10年の間に3,000軒減りまして、今は25,000軒になっています が、調査当初は150軒しかなかった町家再生店舗が今では1,000軒を超えました。もちろん町家の中には老舗もありますが、最近は新しいテイストの店舗 がたくさんできています。例えば、私ども京町家再生研究会が手がけたものとして、橋弁慶山会所を改装し京都伝統産業の職人さんの作品を並べたスペースをつ くりました。また仲間の手がけたものに、昔の造り酒屋を改装してお洒落なイタリアン・レストランにしました。 1999年に大学の研究室で「賑わいを呼ぶ京町家散策」というマップを作成いたしました。すぐ京都市交通局に採用され「京町家マップ」ができました。ど ちらもすぐなくなりましたが、その間に町家がかなり増えました。その後民間のタウン誌「町家でごはん」が発行されましたが、これがとても上手に町家再生店 舗を宣伝しまして、「古い町家のしつらえには若いお嬢さんが似合う」という演出に成功しました。若い女性のお客様が町家に足を運ぶと、30代、40代のお 客様がいらっしゃる。30代、40代のお客様がいらっしゃると50代のお客様がいらっしゃる。今の歴史を見る眼を上手に捉えて、歴史を生かすことに成功し ているといえるわけです。 また、京都に七つの店舗を構える町家を改装したパスタやケーキのお店がございますが、これが若い女性に大変人気がありまして、小さなフリマを開く美大生 や、ちょっとクリエイティブな、芸術に関心のある若くて元気な女性が集まるような雰囲気をうまく醸し出しています。

これらの事例から申し上げたいことは、今人々は歴史に普段の自分の生活を豊かにするものを求めている、ということです。近代の観光は修学旅行に始まりま す。これは軍隊教育の一環であり、伊勢神宮、橿原神宮、平安神宮をまわって皇国史観が教えられました。戦後にその猛烈な反省から反動が起こりまして、広 島・長崎が修学旅行地となりました。そして今、観光は晴れの場からケ(日常)の場へと変わりました。中高年の旅行者が増加し、女性の割合が高まりました。 女性は成熟した社会に歴史文化を求めているのです。家やふるさとに帰った後に自分の暮らしを豊かにする旅がいい。だから町家がいいということになるので す。この動向に答えていく必要があります。 日本でも建築の修理修復投資が急速に増えてきました。新築をするのではなく、古い建物を修理修復しながらホンモノのよさをお客様に楽しんでいただく。新 しい建物を建てるよりも、古いものを活用した方がいいお住まい、いいお店になる。これをお分かりになる方が増えてきた。 例えばスナック・バー・クラブというと、現代風の大理石やメタル、ガラスやスティールを使ったお店が多かったわけですが、知らないうちに変化してまいり ました。1980‐1984年には、先ほど申しました現代風の内装にしたお店が八割で、和風が一割ほどですが、90年代になると現代風が減って、和風が圧 倒的に増えています。なぜか。昔は若いお客様がたくさんいらっしゃいました。若い男性がお店に行って、肌を出したロングドレスの女性がつくってくれる水割 りを乾き物とともに呑んでいた。90年代から21世紀に入りますと、残念ながら我々も歳をとり、お店の女性も歳をとりました。ですから肌は出さない、着物 を着る。水割りと乾き物は変わりませんが、段々歳をとってきますと、どうしてもシックな装いに変わる。そうすると大理石やガラスの内装よりも、和服の似合 う畳の敷いてあるような落ち着いた空間で、成熟した大人の時間を過ごせるお店を求めるようになってきた。2000年に入ると女性のお客様が増加してまいり ます。女性のお客様は乾き物では満足しません。板前さんが気の利いた季節のお料理をちょっと出して、お客様の舌を満足させるということになってきます。そ うすると今度は着物でも着てこようかしらという気になる。こうした諸々のマーケットの変化によって、日本での修理修復の投資が増加してきたのです。ヨー ロッパに比べてまだまだ日本の修理修復投資は少ないですが、京都では非常に高まっています。

そこで歴史を生かすとは何か。歴史のある町並みは観光以前にふるさとの住まいとしての価値が大きい。安普請の住宅はまだ非常に多いですが、京都では厳しく 景観規制をしており、住民の八割以上がこれに賛成している。これは必ず全国に広がっていくと思います。地域に合った建物を建てていく、それも衣食住を含め てホンモノを求めていく、ということ方向に21世紀初頭の今、変わりつつあります。これに答える活動をしていくことが「歴史文化を生かす」ということで す。歴史的環境のマーケティング、社会の変化に応じた歴史への視点を持ち、歴史というものを単なる知識としてではなく、「明日の私の暮らしを豊かにするセ ンス」、「暮らしをよくする知恵」に変えていくという未来に向かった考え方が必要になってきます。

ちょっと厄介な話になりますが、文化財の捉え方が変わってきた、というお話をしたいと思います。日本の文化財保護法が定義する文化財と、世界文化遺産が定 義する文化財を比較してみましょう。日本の場合、美術工芸品が一番目にあげられていますが、これはどういうことかというと、明治維新によって没落した武士 が所有していた美術工芸品がたくさん売られたからです。二番目の文化財保護対象となっているのは建造物ですが、これは廃仏毀釈で日本中のお寺が壊され、仏 像が売りに出されたからです。その後、明治の終わりから昭和のはじめにかけて、史跡・名勝・天然記念物などが保護対象になり、そして戦争に負けた後も明治 の文化財の形を踏襲していくのですが、観光が変わった1975年に町並み、伝統的建造物群保存地区が、また無形文化財として民俗、芸能・工芸・技能が保護 されるようになり、3年前になって文化的景観が文化財とされました。三国の近くでは近江八幡の水郷集落がそうです。つまり、法隆寺や姫路城のような誰が見 ても美しいと思うものでなく、農村の景色や町並みが文化財として登場してきた。このように文化財の考え方が変わってきたのです。それはつまり日本人の心が そちらに向かっているというわけです。法隆寺や姫路城よりも、むしろ美しい田舎の景色や湊町の風情の方が良いというように変わってきているのです。そして この変化は先の歴史の生かし方と一致して動いているのです。 実は世界文化遺産も同じ傾向です。最初はピラミッドや古代遺跡が文化遺産として登録されてきたのですが、だんだん変わってきた。紀伊山地の霊場や石見銀 山、そういうものが世界遺産になってきた。そうやって20世紀の後半から21世紀の初めにかけて世界文化遺産というものも変わってきている。それで文化財 ではなく文化遺産という、もっとダイナミックな意味が与えられるようになった。文化遺産をヨーロッパではヘリテージといいますが、これは「受け継ぐもの」 と訳すことができます。フランス語やイタリア語ではパトリモニー、「お父さんのもの」という意味です。何が言いたいのかというと、自分で手に入れたもの、 これは失くしてもいい。しかし父祖さんから受け継いだものは失くさないでちゃんと子孫に伝えなさい、ということです。それが長男・長女の義務であるとい う。しかし長男の義務を疎かにしたのが戦後の50年間だった。その背景には社会経済の急激な変化もありましたし、相続権が兄弟姉妹に平等になると同時に、 この義務が忘れられたこともあったでしょう。 今その長男に代わって、京都の町家を守っているのは誰か。娘さんです。実際250軒の訪問調査をしてよくわかりますが、残っている町家は大体娘さんが 守っています。パトリモニー、つまりお父さんやお母さんが守ってきたものを大事に受け継ぐ娘さんたちが、実は地域を守っていく大きな力になっている。 ICOMOSという世界文化遺産の審査や検査をする組織がございますが、そこで世界遺産保存の専門家が話し合って決めているのは、地域の人が最も大切に 思うものを文化遺産としようということです。この文化遺産は地域の未来をつくっていくのに役立つ資産である、ということを地元の人がよく理解したらそれを 率先的に文化遺産として認めようというわけです。残すべきなのは、学者先生が価値を認めるものではなく、地域の人が持続的にそこで住み続け、生業をしても らうための資産なのです。

みなさんにはそれぞれ「私の文化遺産」があります。ICOMOSで仕事をしているとよく子どもに聞かれます。「どうして世界遺産を守らなくてはならない か」と。そのときに返す言葉を決めているのです。「あなたはお母さんが好きですか」。そう尋ねると好きですという返事がほとんどです。そこでまた尋ねるの です。大変申し訳ないけどお母さんが亡くなったとします。どうしますか。お墓をつくりますね。お墓は誰のためのものでしょう。お母さんのため。そうです ね。でもお母さんは亡くなっています。じゃあ誰のためのものか。もうお分かりでしょう、お墓はあなたのためのものなのです。お母さんが亡くなっても、お母 さんを忘れることはできない。だからお墓をつくってお母さんが生きているかのように、語りかけたりする。その語りかける対象がお墓であり、そのお墓が私の 遺産なのです。 私の遺産があれば、家族みんなの遺産があります。そうした家族が住んでいれば、地域社会の遺産になります。そうした地域社会の遺産があれば、より広く市 民社会の文化遺産、国の文化遺産もあるし、なかには大きなお寺さんのような宗教の遺産もある。そういう大きな地域社会の遺産の最大のものが世界遺産です。 問題はそれらの間の関係をどうつないでいくかということです。まず、グローバルからローカルに伝えたいことは、世界人類共通して私の遺産から世界遺産まで つながる気持ちは同じだということです。あなたのお母さんのお墓を大事に思うように、私がお墓を大事に思う気持ちも分かって欲しい。だから戦争で地域の思 い出の詰まった宝物を壊すようなことはしないでおこう。逆にローカルからグローバルに発信したいことは、私たちは記憶を大事にしていく住民なのだから、私 たちは戦争をしない。私たちは記憶の器としてこの町を大事にする。その記憶というのは、家族の絆であり、地域社会の絆であり、やがて世界人類を結び付けて いくようなものである。 文化遺産というのは、ユネスコ憲章の前文にある「戦争は人の心の中に生まれるものであるから、心の中に平和の砦を築かなければならない」という「平和の 砦」なのです。だから民族の違い、国の違いなど様々な違いを乗り越える多様な文化のあり方を、全体で上手に統合して行く大きな流れの中で、我々が生きてい る地域社会やその町並みを守っていくということは、それだけでグローバルな平和をつくりだすものなのです。自分の国を知るということが、相手を知るという ことにもなる。とても当たり前のことをユネスコは言っているのです。そういう非常に深い意味がある事柄に対して、文化遺産の価値づけというものを大学の先 生に任せて歴史的な価値があるとしてみたり、学術的な価値があるとしてみたり、戦争中は民族的な価値を証明するために文化遺産が使われたりしたことがあっ たのですが、そのような価値があるとしてみたりしてきましたが、もうそんな価値はいらない。学者の定義も民族国家の価値もいらない。私は私の観点で、三国 湊に生きる私の観点でこの町を見ていくというのが非常に重要になってくる。それが今の人々の気持ちでございます。 ローマも大事にするものが変わりました。ムッソリーニのファシズムの時代には、コロッセオをつくってみたり遺跡を大事にしてみたりしました。しかし今は そんなことはしない。オードリー・ヘップバーン主演の「ローマの休日」の舞台となったスペイン広場がいいと言う。ローマの一番華やかな空間だから春になる とローマ市民と市役所が一緒になってアザレアを飾るのです。同じようにイギリスでも、歴史的な建造物のない田舎の風景や街角にきれいな花が飾られていま す。私の視点で行うささやかな花の飾りつけが町を上手に飾っています。

さて時間も少なくなりましたが、三国湊にはいうまでもなく歴史があります。皆さんのご努力で数々の歴史資源が再発掘されました。町家や歴史的建造物の保存 も進んでいます。そして魅力的なお店がオープンして、新しい商品も開発されています。今日はNPO法人三国湊魅力づくりPJが主催してシンポジウムが開か れております。 皆さんが三国の歴史と文化を支える人々であることは言うまでもないことですが、歴史文化を支えるためにはできるだけ多くの住民・事業者の方々のご参加が必要です。さらにそれを支える大工さんや、地域の食を支える農家が必要です。 とくにそれを率先して進めていくのに元気な女性たちの力が必要です。我々男性は戦前から戦後50年と続く間違った教育の中で、仕事を一生懸命することは 教わりましたが、家族、地域の人々、日常の衣食住を大事にすることをあまり教わってこなかったのかもしれません。きわめて重要な、親や子ども、衣食住に配 慮して暮らすという視点を、もっと女性に学ぶ必要があるのではないか。我々が学ぶチャンスというのは実際にはマーケットの動向の中にあります。いまやマー ケットはすっかり女性化したのですし、女性を惹きつけるお店に行くと我々男性も十分楽しむことができる。そういうお客様がまたお店を磨いていくし、よりよ いお客になってお店に戻ってくることもある。 そういう平和な社会にこれから日本は変わっていくだろうし、変わっていかなければならない。また男が威張って戦争をするような、工業化を進めて国土をズ タズタにして日本の風景を壊すような国にしたいわけではない。だから女性と一緒に、あるいは女性の後に我々男性がついて、平和な美しい国土をつくっていこ うということが、結論としては当たり前のように聞こえるかもしれませんが、風景を守るということの根底にあると思います。

三国の皆さん方が全国に先駆けて日本で一番美しいふるさとをつくることを願っております。長くなりましたが最後までご清聴いただきましてありがとうございました。

 

2部…パネルディスカッション 14:30〜16:00「みくに歴史文化の深層とその魅力」

パネラー:宗田好史氏・倉橋宏典氏・堀名穂子氏・笠島秀雄氏  司会:大和久米登氏

大和

それでは、第二部のシンポジウムに入りたいと思います。テーマを「みくに歴史文化の深層とその魅力」とさせていただきましたが、テーマ以上にバラエ ティーに富んだものになると思います。まずパネリストの皆さんを紹介させて頂き、今実施している活動とその活動から見た三国についてお話して頂きたいと思 います。宗田先生は先ほど基調講演をして頂きました。宗田先生は京都府立大学准教授で日本風景街道近畿地区研究会の会長を務められています。 ではお隣の倉橋宏典さんをご紹介いたします。倉橋さんは三国町に生まれ東京大学で都市工学を専攻されていました。卒業論文で三国湊地区の歴史的町並み文 化調査とまちづくりプランを発表し、これが「みくに歴史を生かすまちづくり推進協議会」のグランドデザインとなりました。倉橋さん宜しくお願いいたしま す。

倉橋

ご紹介いただきました倉橋です。今東京で都市計画コンサルタントをしています。都市の構造や成り立ちを読み解いてそこにふさわしい町づくりの方策を提案す る仕事です。三国の町づくりにかかわるようになったのは、大学三年のときに先生から「お前はなんていいところの出身なんだ」といわれたことがきっかけで す。それまでは片田舎としか思っていなかったのですが、そういわれて実際に帰ってみると、確かに古い建物はあるし、ちょっと調べるだけで歴史文化がとめど なく出てくる。そして実は自分の家が町家だったことにも気づいたんですね。加えて町家がなくなっていくことに対して危機感を覚えました。 三国町でも昭和58年から平成15年までに多くの町家がなくなっています。加えて空き家も増加しています。町家型住宅のなかにも空き家や一割ぐらいある ことが分かって、これに危機感を覚えたことが、三国の町づくりを卒業論文として取り組んだきっかけとなり、引き続いて旧市街地の活性化プランを提案させて 頂く運びとなり、みくに歴史を生かすまちづくり推進協議会に関わりを持った次第です。 その関わりで2003年に作成したのが「三国町中心市街地まちづくりグランドデザイン」です。簡単にご紹介したいと思います。この中で、旧森田銀行に拠 点にして周囲に広場をつくること、山車小屋をもってくること、それまでは使われていなかった旧岸名家、梅谷家を活用すること、通りを広くしていくこと、そ して、三国祭りの拠点である三国神社の前の広小路の舗装を変えたり、ポケットパークをつくったり、「散策して楽しい町」にしたらどうかと提案しました。 それから、これは宗田先生のお話とも関係するのですが、景観づくりのために、町並みをどう揃えていくか考えまして、格子をつけたり、駐車場に門をつけるな ど一体感をもたせることを提案し、また、空き家を活用していく仕組みをつくっていけないかと提案しました。 これを踏まえた町づくりが今行われているところで、とても嬉しく思います。そのままの流れで大学院では北陸の七つの祭りを調査して、祭りの似合う都市空間とはどのようなものか研究しました。 では次に私が考えた「三国湊の魅力と三国らしさ」についてお話したいと思います。魅力の一つは、やはり三国祭りです。例えば七尾の青柏祭では大きな山車 が、ジグザグな路地をものすごいスピードで曲がっていきますが、そうした祭りが盛り上がる空間が三国にもあります。このような空間は普段生活していてほぼ 気づかないものです。何気ない空間がすごく大事であるということです。他の祭りの山車の多くが四輪なのに対して三国の山車が三輪なのは、町の通りが曲がり くねっているからだとも考えられます。さらに祭りの山車も街路と家のスケールに合わせて大きさを変えてきました。祭りから街路や街並みなどの三国らしい、 大事にすべき都市空間が見えてきます。 そして次に挙げられるのは、三国の町と川との繋がりです。対岸から三国の街を見れば、昔は蔵が並んでいたのですが、川岸に家が連なり、その奥に丘の稜線が控え、さらに向こうに白山が聳えているという風景があります。とても三国らしい風景だと思います。 しかし三国の魅力は歴史が息づく旧市街地の町並みに尽きるものではありません。日本風景街道で提案したのは、湊を広がりを持って捉えること、つまり東尋 坊、荒磯遊歩道、雄島、越前松島という海岸線、そして背後に豊かな農作物を供給する丘陵地と連続したものとして捉えることでした。 とても小さな範囲の中にこれだけの魅力がある。このことの重要性に気づいていない人が案外多いのではないかと思います。これを気づかせるために何か取り 組みをしなければならないのではないかと思いました。たとえば三国の旧市街地から水上フェリーを定期的に運航させる、自転車ルートをつくる、ドライブのた めの駐車場を要所毎につくるなどの提案をさせて頂きました。そのような三国の魅力を体験できる仕掛けをつくっていくのが大切だと思われます。 次に三国湊きたまえ通りの町並みの変化についてみてみましょう。2002年に撮影した写真と2006年に撮ったものを比べると、大きな変化にお気づきに なるかと思います。まず旧森田銀行があり、岸名家と梅谷家を町が保存して拠点をつくりました。そして三国湊座やジェラート・カルナができて、人が来るよう になりますと、電気屋さんや山車小屋等、周辺の家々が修景に取り組み始めました。もちろん行政のバックアップも大きかったのですが、こうした連鎖反応が起 こり、たった4年間で町並みは大きく変わったこと、これはものすごいことだと思います。行政が保存をして、民間も乗ってきたという連携体制は今の時代に ぴったりだと思います。個人的にはこれを神社のほうまでつなげていきたいなと思います。手前味噌ですが、我が家も一週間ぐらい前に町並みに合うように改装 しましたところ、隣の家も改装するそうです。 住んでいる人に、何がいいのか、何が三国らしいのかを気づいてもらうというのが大切だと思います。連鎖反応的に広がるということは、それまで何をしたら いいのかわからなかったということでもあります。そのための取り組みを続けていかなければいけないと思います。

大和

有り難うございます。今のお話にもありましたように、大学時代に三国に戻ってこられて、町のデザインを考えてくれたのですが、それが今一つ一つ具現化されています。後ほど今考えている構想をお話して頂きたいと思います。 次にご紹介させて頂きますのは堀名穂子さんです。もともと三国町のご出身ですが、現在石川県小松市にお住まいで、リトルパインシアターという市民劇団を 主宰されております。以前から活発な方で、青春時代には外国へ留学すること多かった堀さんですが、今の活動とそこから見た三国についてお話頂ければと思い ます。

同級生の大和さんからご紹介頂きました、堀でございます。青春時代に留学したとご紹介頂きましたけども、確かにいろんな国を見たからこそ、日本や生まれ 故郷のよさがわかるということがあると思います。イギリスへ行ったり、アメリカへ行ったりして、今度こそ落ち着こうと、結婚して小松へ参りました。きちん と主婦業をしようと思ったのです。そのうち、たまたま公民館の館長さんに頼まれて、英会話を教えだしました。30名ぐらいの働きながら学んでいる方々に教 えていたのですが、話していると、皆さん週末にやることがないと仰るんですね。「小松になんか何もない」と仰るのが凄い寂しくて、どんなに小さな町にも色 んな可能性があると思っていたものですから、皆さんが何か出来る環境づくりをしなくてはと大学時代にやった経験のあるミュージカルを始めたんです。ミュー ジカルをつくるのに必要な様々な作業と役割がございますが、それを経験している方が意外と多かったのです。演出する人、衣装をつくる人、音楽をつくる人、 色んな特技を持った人が働いたら家に帰るだけという、経験を活かせない状況がありましたので、とにかくやってみようと始めたんです。 去年、今年と上演したミュージカルをご紹介したいと思います。小松に仏御前と申します、平清盛に寵愛を受けた白拍子がございました。とても勇敢な方で、 京都まで上ったのですが、世の無常を儚んで小松に戻って参りましたが、この方のミュージカルを上演いたしました。毎年ミュージカルを創作して、来年で20 周年になります。過去にはミュージカル勧進帳をというものも上演いたしました。JCの方と協力して舞台を組みまして、合計1万人くらいのお客様に来ていた だきました。小松で生活されている方に、「お仕事」と「家」との間に「ミュージカル」という項目が入ることによって、結果的にミュージカルを通した町づく りをしているのかなと思います。あまりこうした活動をしている劇団がないもので、リトルパインシアターに入っている人は、金沢からも加賀からも来ており、 1年がかりで一作か2年がかりで一作創っております。 町づくりに関して申し上げますと、今多くの地域で進められておりますけれども、訪ねてきた人だけでなく、住んでいる人がいいなと思えることが重要な点だと思います。そして、伝統文化だけでなく、若者が楽しめる文化があることが大切なのではないでしょうか。 私も三国祭りが大好きなのですけども、あれもひとつの子ども文化ですね。お子さんは山車に登るのをとても楽しみにしてると思うんです。それがどう現代的 なものにつながっているのかなと思っていましたが、子どもミュージカルがあると聞いて、とても嬉しく思っています。

大和

有り難うございます。堀さんが上演されたものでも、ミュージカル勧進帳は素晴らしかったですね。古いものを若者にも理解できる形にする、それが素晴らしいと思います。後ほど今後の展開をお聞きしたいと思います。 それでは、皆さんよくご存知の笠島秀雄さんをご紹介したいと思います。笠島さんは10年以上も町づくりに関わっておられます。誰がつくったんだとよく県 外の方からお問い合わせ頂くのですが、ご自身でブログをつくって三国を紹介されています。去年までは三国町商工会の会長を務められ、今は三国町を代表して 坂井市商工会の副会長を務められ町づくりの要として活躍されています。では笠島さんに今までの活動についてお話をよろしくお願いいたします。

笠島

笠島でございます。よろしくお願いいたします。只今ご紹介に預かりましたとおり、坂井市商工会の副会長とみくに歴史をいかすまちづくり推進協議会の会長をしております。 私たちはよく三国が好きだといいますが、考えてみると三国という実体があるわけではありません。それは指差すことも見ることも出来ないものですが、歴 史・文化・伝統、そして祭りからそれを感じています。このようないわば無形のものが与える意識が、人々を心の中まで三国の人間に、土地の言葉でいえば「三 国のもん」にしていると理解しています。 その三国ですが、古い町並みは年々少なくなってきており、人々の心のつながりも希薄になっていると長年感じてきました。そこで十数年前から何とかしなけ ればならないという気運が住民の中から出てきたように思います。一番初めに山王振興会という団体が生まれました。その後平成八年に町並み推進会議「三国湊 町衆の会」というのができ、その数年後には「三国湊会所21.」というのができました。これは司会の大和さんが代表を務められた会でございますけれども、 このように三国湊の人たちが自主的な集まりをつくって活動をしてまいりました。 こうした取り組みの中で住民が危機意識を深めたきっかけとなったのは、森田銀行の取り壊しではなかったかと思います。私どもが日頃大事な景観として当然 と思っていた建物に足場が組まれ青いネットが張られて取り壊しの寸前までいったことに、非常な危機感を覚えた。 そこで三国の歴史と文化に焦点を当てまして、同じような考えを持っていた商工会、観光協会、自治会、行政などが何とかこの町をいい町にしていけないかと いうことで、20 余りの団体とそれに賛同する個人が集まりまして、平成13年度1月26日に「みくに歴史を生かすまちづくり推進協議会」という団体を立ち上げました。その 目的は、湊町としての歴史と文化に根ざした個性的な町づくりをしていこうというものでございます。三国の知識を高め広めるための講演会を行いました。そし て岸名家、梅谷家という重要と思われる文化財の保存・活用の提言を行い、さらに三国北前ストリートと名づけた事業を2回行ってまいりました。さらに三国祭 りの保存活動を行い、今年10月には各団体のご協力を得て三国祭りの冊子を発行いたしました。平成15年には三国郷土芸能祭を開催しました。そして同年倉 橋さんが作成されました計画をまちづくりのグランドデザインとして目標を設定しました。荒磯染めも始めました。16-17年にかけまして、主要な史跡をも とに謂われ書きを20箇所ほど設置いたしました。現在は文学の謂われ書きというものを計画しておりまして、近々設置されると思います。 平成13-15年を三国の文化の奥行きを知ることに焦点を当て、その後人を受け入れる準備をしてきたわけです。16年から本格的な活動を開始してまいりました。 この年に福井県が企画し募集した「ふくい県地域ブランド創造活動推進事業」というものがございまして、これに町中の人たちの集まりである「みくに歴史を 生かすまちづくり推進協議会」と農業者のラーバンの森が協力いたしまして、「三国湊魅力づくりプロジェクト実行委員会」として応募いたしました。20件ほ ど県内から応募がございましたが、その中で採用された2件の一つに入りました。三年連続事業が採択されることになったのです。 このようなみくに歴史をいかすまちづくり推進協議会の活動は、放送大学の大学院の教材にも取り上げられております。そして三国湊魅力づくりプロジェクト の活動は、町並み散策ツアーということでエコツアーを相当数行い、農業体験のグリーンツーリズム、さらにおけら牧場でのコンサート、歴史的な建物へのライ トアップの実験を行ってまいりました。三国湊きたまえ通りには、ジェラート・カルナや三国湊座が出来て大変賑やかになりました。以前は猫一匹いない通りで したが今では数万人が訪れております。 こうした活動を通じて三国湊をよりよい町にして行きたいと思っております。皆様のご協力を今後ともよろしくお願い申し上げます。

大和

有り難うございました。こういう活動のきっかけとなったのは2001年の北前ストリートという事業が大きかったと思います。それまではここで町づくりを やってうまくいくのか半信半疑だったんですね。それが一日3000人も集客することが出来た。それも新聞やテレビというパブリックな広告だけで集まってく れたのです。何十箇所も町を案内をしてくれたり、食べ物を無料でサービスしてくれたりした方々がいて、町ぐるみでやったら見違える町になりました。それで 絶対やっていけるぞと確信をもちました。民間の活力と官のバックアップがうまく連携されて、きたまえ通りはその結晶だと思います。去年は七万人ぐらい集客 したのですが、観光の専門家はリピーターがつくかは疑問だし、これだけでは魅力は足らないと仰います。そこで宗田先生にこれからの課題についてお伺いした いのですが。

宗田

まず一つは、三国の皆さんはこの町を観光地として発展させていくおつもりがあるのかどうか。これをお伺いしたいのです。次のステップとしてさらに大きくなっていくかどうかという問題です。 リピーターが来てくれる町になるのかそうでないかという問題とも関係しますが、東尋坊、芦原温泉といった観光地は古いですよね。全国的にみて、トレン ディーなお客さんはそういうところには行かない。だから、新しい可能性を拓くために三国湊の文化財を活用して、たとえば京都と金沢の間にある湊町で、鄙び てはいるけれども質の高い町、そこ知れぬ深さがある町ということを演出していく、そこまで皆さんが総意として望むのかどうか。祭りの似合う町づくりという のも郷土愛からよくわかりますが、ちょっと気になるのは、観光都市、文化創造都市というのは、そこに生まれ育った人だけが町を支えているのではなく、むし ろ外からやってきた人が支えています。フィレンツェがそうです。京都のキモノ文化検定を受ける人も余所者です。余所者・新人にフィレンツェ、京都のよさを 伝えているのです。ですから、お祭りだけでないもっと広い結びつきを考えなくてはなりません。三国湊の再生はそこまでいくかにかかっています。多様で多数 の人が必要なのです。裾野を広げる計画を今後どのようにつくっていくか。外と中の多様な人材をどう発掘していくか。かつてジェーン・ジェイコブスというア メリカ人がこういう言葉を残しました。「新しいアイディアは古い建物の中から生まれる」、と。皆さんは文化財を残しました。後は新しい文化をどうつくる か。つまり文化の部分、ソフトの部分についてどのようにお考えか皆さんに伺いたいと思います。

大和

守るだけでなく活かすという部分ですよね。我々三国にいる人は古い建物の良さを知ってると思うんです。ただ新しくつくるやり方がわからない。県外在中の 倉橋さんと堀さんはその部分が分かると思うのですね。まず堀さん、今宗田先生のいわれた人の繋がりについてどのように思われますか。

三国の人は観光の町にする覚悟があるのか、観光と文化をどう連携させていくかというお話でした。そこで今どういう町に人が集まっているかというと、「観 光ズレ」していないところだと思うのですね。京都、金沢に飽きてしまった場合、三国は需要に応えることができるのか。私は色んなところを見て回ってまいり ましたが、皆さん、三国は世界に通用する町ですよ。小さい町に自然の恵みと文化が凝縮されている。食べ物、美しい水辺、川と海があります。 海外からいらっしゃったお客様を日本のどこかへお連れしようとします。例えば京都ですと、お寺自体はよいのですが、そこへ向かう通りには大きな商業施設 やパチンコ屋が並んで、あまりロマンティックでありませんので、私でしたら岩手の山里の風景や、四国の少し霞んだ山の風景、東京近郊なら森のような軽井沢 といったところに連れて行くと思います。そういう視点で三国を見ますと、三国は住んでる方々は気づいていないけれども、「観光ズレ」していないからこそ、 旅慣れした人が訪れたい魅力があると思うんです。どんなに風光明媚であっても、その良さを住民の皆様がよく認識していないと観光客を受け入れることは出来 ません。 リトルパインシアターが民間主導なのに19年もよく続いているなと仰って頂くのですけれども、継続するポイントは組織づくりにあります。三国のイベント に興味のある方、観光地としてのPRに興味のある方、蟹だけでなく、らっきょうやもずく、料理部門に興味のある方を部門毎に組織していくことが必要ではな いでしょうか。もう一分張りして、住民総出で観光客に対して三国の魅力を伝えられるような社交性を身につけていく。それが世界に通用する観光地、三国の進 むべき道ではないでしょうか。

大和

有り難うございます。高く意識を持ってそれに向かって皆で連携していくということですね。

そうですね。住民の方々が控えめなのは浄土真宗の生んだ町の風土かもしれません。誇りを持って生活していくためには、他の町にいってみるのも宜しいかと思います。それによって三国の良さが際立つこともありますから。

大和

三国には題材はたくさんあるということですが、笠島さん、それをどのようにわかりやすく伝えたらいいと思いますか。

笠島

「観光」という言葉は中国の書物の中に出てくるのですけども、「光」を「観る」ということは、ある土地へ行ってそこにある素晴らしいものを得て、帰ってき た自分の町に活かすということだと思います。翻ってみると、三国の町中には本物の観光客の眼に十分耐えうるものがあると思います。三国に潜在するたくさん の仄かな光に、我々が光をあてることによって、それがさらに光り輝いていく。こうした作業をすることによって、三国に来て頂いた方が「観光」することにな るのではと思うのです。 インターネットのウェブサイトに「いらかぐみ」というのがございます。そこに町歩きの好きな方にお勧めする日本の町並みベストテンというものがございま す。城下町、宿場町、港町など六つのジャンルがあるのですが、港町のランキングで三国湊は上から二番目です。一番は広島県の鞆です。足を運んでみると実際 に素晴らしいところなのですが、自分は三国のほうがよっぽどいいんじゃないかと思います。私たちは自分たちのことをこれまであまり評価してこなかったんで すが、町並みを見る眼をもっている人たちが、重要な町だと認識して、二番目に位置づけているわけでございます。 先日、みくに文化未来館で、近松門左衛門を現代的に解釈した「けいせい仏の原」というお芝居を上演いたしましたが、このとき三国に所縁ある詩や小説の一 文を各家の軒先に飾ろうということになりました。すると短期間で三国を題材とした文学作品が500あまり出てきました。高見順や三好達治、森田愛子をはじ め、たくさんの文学者による宝の山のような題材が三国の町にはあります。これを活かすかは私たちの仕事でございまして、大変難しいものでございますが、こ のような光のあて方もあるのではないでしょうか。

大和

有り難うございました。「どう活かすか」については一言でいえるものではないですね。頭を使って取り組んでいきたいと思います。都市計画の方面で、倉橋さんに「活かす」アイディアをお聞きしたいと思います。

倉橋

最近、若い人たちが古いものの価値に気づいてきたのではないかと感じています。古いものがかっこいいと思われるような、これまでと全く違った価値観が現わ れてきた。例えば東京でも古い家を修復した住宅の賃貸情報がネットにありますが、すぐ予約で一杯になっています。三国では三国湊座で若者を集客しそのニー ズに応える活動をしていますが、「古いものを活かす」という意味では、その他にも、「若者に古い町家に住んでもらう」というライフスタイルも可能性がある のではないでしょうか。

大和

そうした動向が実際見受けられまして、少数ながらやっぱり若い女性が移住しているのです。京都でもそうだというお話でしたが、宗田先生どうして若い女性なのでしょう。

宗田

京都では西陣の織家さんに住み着いたのが美大系の若い女性でした。女性は自分が若いときに古い家に住むと自分が美しく見えるということを知っているので すね。「観光ズレ」していないのが三国の良さという話、私もよくわかるのです。けれども本当に三国の皆さんは「観光ズレ」していないのでしょうか。という のも、ふつうの田舎の方々と三国の方々は違うと思うのです。何がそうさせるかというと、ここが湊町だったということです。つまり、そもそもこの町には流れ 者が流れ着くのですね。なぜかというと、他の田舎と違い、余所からやって来た者にとって居心地がいいのです。三国は暮らしが馴染むというのか、なぜか逗留 しながら作品が書ける。だから多くの文学者や芸術家が三国に足跡を残したのだと思いますね。そうした余所者や流れ者を受け入れる素地というか、遺伝子とい うべきものが三国にはある。これを活かさない手はない。三国に関係する文学の「謂われ書き」を紹介するだけでなく、高見順や三好達治といった人が、実際に 三国の誰に接し、どこに泊まって、どういう交友関係を結んだのかまで踏み込んではどうでしょうか。この側面をうまく活用している町といえば、ヴェネツィア がそうです。かつての栄光が過ぎてから何百年も経って、町として衰退した時期にこの地を訪れたのが、トーマス・マン、スタンダール、ヘルマン・ヘッセ。文 学史に名を残す作品をヴェネツィアに逗留して書いている。そう思うと、三国の町並みを懐かしいと思うのは三国の人たちだけじゃないのですね。三好達治、高 見順といった人たちの作品を通して、三国を懐かしいと感じる人がいる。その人達との交流をしていくというのが21世紀の課題ではないでしょうか。皆さんは 古い町並みを残した。だから外にいる人材、外からの三国の文化に対する認識を使うことがこれからの大きな課題だと思います。

大和

有り難うございます。外からの視線を受け入れるということに関して、地域にはなかなか排他的なところがあると感じるのですが、笠島さん、いかがでしょうか。

笠島

三国というところは川あり、海あり、丘ありと本当に地理的な多様性がございます。九頭竜川水域には60万人もの人が住んでいるのですが、北前船の時代に は大阪から北陸までの間にこれだけの流域面積をもつところはありませんでした。いわば物資の集散地であり、それにともなって様々な文化が流入し、その中で 三国独自の文化が熟成されてきたといえます。排他的な面もあるかと思いますが、こうした異なるものを混合して独自性を培ってきた歴史もあるのです。

大和

三国には地理的に変なところがあるんですね。一言でいいますと、中心がないということです。ふつうの歴史文化を基に観光をしているところだと、円や四角 の形をしている。だから皆が中心に向かって心を一つにすることが出来る。しかし三国はそうでなく、様々なポイントがあり、求心地がない。だからある所で活 動が盛んになってくると、別の所ではそれに対して支持しようというよりむしろ違和感を覚えることがあるのです。この点、どう考えたらいいでしょうか。

宗田

京都がまさにそのとおりです。歴史や地域や職業によってみんなバラバラなのです。でも今は、そういう人たちが多様性を認めながらどのようにして共生する かという成熟した時代に入っているのです。そして違和感を覚える人たちというのも、実は声をかけてほしいと思っているのですね。町並み保存をするときに も、こんなことがありました。古い町家は、汚い・寒い・暗い。こんな家を残してどうするのかと家の持ち主が仰います。そのとき、「そうでしょうか」といっ ては駄目なんですね。お話をしているうちに気づいたんです。褒め続けなきゃいけない。このお座敷がいい、この暗さがいいといって。するとだんだん変わって くる。実は家や町に対する愛着があるのです。そう考えますと、隣の人ほど三国を一層好きなはずです。その心理に気づいてあげないといつまでも仲良くなれな いのではないでしょうか。

大和

今の話を伺っていて気づいたのですけれども、こうした町づくりの活動に余所からやってきた人が二人加わっていたのですが、その方々は我々地元の人間では進められない話をすっと通してしまったことがありました。 さて、時間もわずかになってまいりました。現在、市町村の合併によって民間による町づくりというのが難しくなっている現状があります。いかに生活しながら町づくりをしていくべきかお伺いしたいのですが、いかがでしょう。

宗田

少しお役所的な答えになりますが、方法として次のことが考えられます。坂井市は福井県で初めて地域自治区制度を採用しました。ですから、都市計画マス タープランなど計画していく場合、坂井市というよりも三国町、丸岡町、という単位が大事になってくる。そこで、平成20年度の概算要求で文化庁が文化財を 総合的に把握し、社会全体で継承していくための方策として、自治体に「歴史文化基本構想」を策定し、関連文化財などを生み合わせて「保存・活用区域」を設 定することを勧めている。町並みから三国祭りまで、ハードとソフトの文化遺産を活かし、四つの自治体がまとまった坂井市としての歴史文化基本構想をつくる のです。これを受けて、国土交通省は「歴史的環境形成総合支援事業」を創設し、自治体に様々なメニューを用意しました。地域の文化遺産を上手に演出する装 置としての町並み・道路・堤防をどのようにつくるかということであり、それらの整備に補助金を導くための「歴史的環境保全整備計画(仮称)」をつくること です。そこからさらにVisit JAPANキャンペーンにつながってくる計画が多様にありますので、文化庁、国土交通省(旧運輸省を含む)の補助金を連続的に上手に導いてくる構想が必要 になってきます。これが町づくりです。その町づくりの軸が文化遺産、歴史・文化ということになりましたので、皆様方が10年、20年続けてこられた活動を ベースに、どういう町をつくるのかが今こそ問われているのです。三国湊は、やはり堤防をきれいにして、切妻の蔵がずらっと並ぶ景観と、そこから海が眺めら れ、さらに向こうに蜃気楼のように霊峰白山が見える、という風景を取り戻しましょう。30年‐50年かかるかわかりませんが、皆さんが一番美しいと思う風 景をつくる制度は出来ています。それに向かって是非お取り組みいただきたいと思います。

大和

有り難うございます。車の両輪のように、誇りをもって、活力をつけていく、そうした活動をして行きたいと思います。最後に一言ずつお願いします。

笠島

今三国町に住んでいるのは6800人ですが、新興住宅地も含みますので、川と中央通りに挟まれた昔からの三国湊には今5000人ぐらいしか住んでないん ですね。昭和30-40年代には11000人ぐらいの人が住んでいた。今は約半分ぐらいしか住んでいない。その人たちだけで三国の文化の維持・継承・発展 させていけるのかということが問題だと思います。 それから、坂井市も地域自治区やまちづくり協議会をつくりましたけれども、合併して行政の規模が大きくなるとどうしても従来の地域に目が届きにくくな る。こうした矛盾を解消するためにまちづくり協議会を作ってきたのだと思いますけれども、行政としてもそれを必要としたのですし、私たちもそれに参加して きました。ぜひこういう組織を何年か経ったらなくしてしまうのでなく継続して設けて頂いたら大変有難いと思います。これからも宜しくお願いいたします。

先ほど三国は世界に通用する町だと申し上げましたけれども、三国は町が規模的に小さかったからグランドデザインができました。それがとてもよかったと思 います。統一性を感じるからです。町や行政が大きいと、ある場所では和風の家があって、別の場所ではオランダ風の建物がある、ということがありますね。三 国の統一感を保ってほしいと思います。 今、町づくりはどこも競争してやっていますけれども、詩を中心にやっていこうとか、料理を中心にやっていこうとか、人口が少ないからこそ可能な一致団結した連携プレーという個性を出してやっていってほしいと思います。 最後には町に巫女的な女性を育てていってほしいと思います。町内の揉め事にもその人ならまとめてしまうという女性です。やはり女性はコミュニケーション が上手だと思うので、意固地にならずに一緒にやろうよという女性を育てて、男性と女性が連携しながら町づくりを進めていただきたいと思います。

倉橋

風景を取り戻すために、三国らしさを皆で共有していく、そうした目標をもって外側からも文化を呼び込んでいくヴェネツィアのような町を目指してやっていきたいと思います。

宗田

平成の大合併がありまして、私も推進の立場のですが、その大きな理由は、ご高齢の方と若い方の地域に対する感覚が違うからなのです。道路も鉄道も不備な 時代には、福井県内は広く、かなり遠いところに広がっていました。現代では買い物も習い事にも、県をまたいで行くことも、京都、大阪、東京まで足を伸ばす こともあります。商品の流通にしても同じことがいえます。だから地域の見え方、暮らしかたが年齢層によってかなり違う。そのため合併に対しても考え方が違 うのです。今回の合併は、もはや時代遅れといってもいいほどに小さな町を現代人の感覚に合わせただけだと思われます。ではそうした中で、町づくりをどのよ うに考えるのか。たくさんの小さな地域をもう一回結びなおしていって、統一性を出していくのか。それを結びつけるのが、文化です。三国には、祭り、文化、 歴史がある。地域というものは先程申し上げましたようにこれからもっと広がっていきますが、文化がまとめることが出来るのです。それが地域の魅力を活かす ということだと思います。

大和

心強い激励の言葉、本当に有り難うございます。皆さん、パネリストの方に盛大な拍手をお願いいたします。これで本日のシンポジウムを終了したいと思います。今日は長時間のところ、ありがとうございました。

総合司会

パネリストの皆様、どうも有り難うございました。今日会場にいらっしゃる皆様も、三国を愛してやまない方々だと思います。私達一人一人の力で町づくりが 進んでいくことを願って、本日のプログラムを終了いたします。皆様、長時間にわたるご清聴誠に有り難うございました。閉会にあたりまして、NPO法人三国 湊魅力づくりPJ理事の長谷川啓治がご挨拶申し上げます。

長谷川

皆様、今日は基調講演、シンポジウムと長時間にわたりましてご清聴頂き、誠に有り難うございました。宗田先生、そしてパネリストの皆様、お疲れ様でござ いました。非常にわかりやすいご講演と活発なパネルディスカッションで、様々な面からの「気づき」があったのではないかと思いますけれども、今後はその 「気づき」をどのように活用するかということを、皆様とともに考えて行きたいと思います。これからもどうぞ宜しくお願いいたします。今日は歴史・文化とい うお話が中心でしたが、先ほどのお話にも「自然と文化が共存する町」というご指摘がございました。明日は「三国湊の自然との共生」というテーマで、ナホト カ号の重油流出事故から10年を機にシンポジウムを開かせていただきますので、こちらのほうにも是非足を運んでいただきたいと思います。今日は誠に有り難 うございました。

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