「JC(青年会議所)に育てられた、という部分が大きいんですよ。」とさらり。
25歳、会社の設立と同時に地元のJCに入会し、様々な人達と出会います。その出会いが長谷川さんの人生に大きな財産を築いてくれたのだそう。JCでは組織と人間学を学びながら世界中にブレーンを広めました。入会まもなく日本JCに出向し、一年目は世界の各国から代表者を日本に集め意識改革のセミナーを開催し、なんと翌年にはニューヨークの国連本部を貸切りモデル青年国連の立上げ実行部隊として携わり、世界を見ることになるのです。
あまりの素晴らしい経歴に、思わず言葉を失うほど!すごい、こんなにすごい人が三国町にいたなんて!!
「人間は何でも出来てしまう素晴らしい動物なんですよ。“絶対にやる”と決めたことは必ず成し遂げることが出来る。大切なのは“絶対にやり遂げる”と自分の意思で決意することなんです。」
そう語る長谷川さんは働き盛りの43歳。これまでJCの幹部に就任してきた他、まちづくりやPTA関連でも様々な役職に就いています。何やら今年の春からは裁判所(非常勤)でも活躍することに。その視野は日本、いや世界を見つめているのです。
けれど大切なのは自分の足下。三国で生まれ育ち「三国が一番好き!三国を大好きと思う人たちと、地元で生きていきたい!」という思いから、再び地元JCに活躍の場を移します。その後、三国商工会の若者たちと共に、三国祭で7番目の山車(本来は6基のみ)を出したり、三国町の女性ミュージシャンらと三国節をアレンジした音楽・ダンスを生み出しました。その踊りや音楽は、今では三国町内の各小学校で踊られるほか、三国町民体育祭で毎年披露されます。その時にボーカルとして登場するのも長谷川さんの役割。実はこれだけ多忙にも関わらず、ずっとバンドを持ちボーカルとしても活躍しているという顔も持っているのです!
その他にも北前船で栄えた三國湊を題材にした演劇の俳優を勤めるなど、とにかく多忙!そのたびに三国の歴史や文化に触れ、それを学び一つずつ前に進んでいく。そうして愛する故郷・三国を盛り上げている立役者でもあるのです。
そして忘れてならないのが1997年に起きた“ナホトカ号重油流失事故”。突然日本海を襲った重油事故は、三国町の海も真っ黒に染めていきました。ナホトカ号から流れ出た大量の重油。三国町は全国でも一番被害がひどく、向こう何年も海は蘇らないだろうと、地元の人々も諦めていたのです。その海を美しく蘇らせた立役者もまた、長谷川さんでした。
1997年1月、ちょうど長谷川さんが三国芦原金津JCの理事長に就任した直後にあの事故は起こりました。途方に暮れる地元の人々。全国から続々と押し寄せるボランティア。自分に何が出来るだろうと考えていた長谷川さんのもとに、JCの仲間から「JCとして何かできないか?」と連絡。その時、「そうだ、組織として出来る役割があるのではないか。」と気が付いたといいます。JCとして重油除去対策本部をすぐさま設置。するとそこへ阪神淡路大震災で活躍した元気村の山田氏から「ボランティアのコーディネーターになるべきだ」という提案を受けハッとしたそう。その時、荒れた海を前にして数多くのボランティアは一斉に、それぞれが個々バラバラに、油をすくう作業のみをしている状態でした。
今でこそ、ボランティアにも様々な役割があることが認知されるようになってきましたが、当時はまだそれも浸透していない頃。全国からは本当に多数のボランティアが訪れたものの、収拾が付かない状態。そこでボランティアセンターを設置し、初日からボランティアのコーディネートに専念します。先ず机を並べ、最初に受付した人から「貴方のボランティアは受付です!」とバケツを手に並んだ人を順番にスタッフにしていったそうです。重油回収作業の他、炊き出しや物資担当、インターネットで発信する為のメディアルーム、波が荒れた日に重油回収中止を呼びかけるパトロール隊など、ボランティアの役割を分担させて責任者を作っていったのです。
大好きな三国、大好きな美しい地元の海が黒く汚れ、その時のショックは大きかったと言います。三国はもう駄目なのではないか、当初、そんな想いが長谷川さんの脳裏にも、ちらついたのだそう。けれど「俺が諦めたら駄目だ!」と気を引き締め、自分の出来ることを冷静な目で判断し動いていったのです。
必要な物が思うように揃わない、ボランティアと地元のトラブル、休日で人は大勢集まるが悪天候にて作業中止・・・など問題は山積み。それを一つずつクリアしていく日々が続きました。その中で長谷川さんは、思いの違うボランティアの心を一つにしたいとスローガンを募集します。
“よみがえれ、日本海!”
選ばれたこのスローガンは、様々な人の心の支えになりました。こうして全国各地から訪れた数多くのボランティアに支えられ、三国の海は少しずつ蘇っていきます。数年かかるだろうと言われた作業は3か月で終了し、その活躍は三国町だけでなく全国の知るところとなり、平成12年にはNHKの人気番組「プロジェクトX」でも取り上げられました。こうして三国の海は今日も美しく光り輝いています。
その後の長谷川さんはというと…。慶応大や久留米大を始めとする学校関係や各県の防災センターや環境団体等から呼ばれ全国へ「それぞれ個人・組織・企業・行政として出来ること、すべき事があるのでは?」と提案に廻っているそうです。また相変わらず地元でも精力的に活躍中!事故の一年後、海を見てみると折角全国の暖かい心により蘇ったにも関わらず、今度はゴミで海が汚れている。この事実を知るやいなや、JCの仲間とゴミを拾い集め、流木アート『海からの贈物』としてリサイクルショップで販売。その他、当プロジェクトでも取り組んでいる海藻を使った“荒磯染め”を広める活動にも取り組んでいます。今後は三国の自然を生かした街づくりに取り組んでいきたいのだそう。
「よみがえれ、日本海!」この言葉には、海をきれいにするだけでなく北前船で栄えた三國湊の活気を蘇らせたいという長谷川さんの想いが込められています。これからの三国がもっと面白くなることに期待したいと同時に、その動向に目を離せない強者が長谷川さんだという気がします。そんな長谷川さんですが、海を眺める目がとっても優しいのが印象的でした。