イベント・シンポジウムなど

三国湊歴史を生かす町づくり文化フォーラム レポート

2009.03.30  by

趣旨

北前船の寄港地として栄え、今なお民家やその街並みにかつての歴史文化を残存させている三国湊(福井県坂井市三国町)において、歴史文化を活かしたまちづくり、民家の保存・修復や街並み景観づくり、そしてその活用が行われています。 平成18年度・19年度に引き続き、三国の歴史文化の深層を再発見する第三回目の文化フォーラムを行い、過去から脈々と繋がってきた地域や街並み(集落)の風景の履歴にも着目し、これらを組み合わせたこれからの「街のあり方」について認識し、地域活性化活動の新たな可能性を探究しました。

概要

日時 2009年3月15日(日)  開場13:00〜 基調講演13:30〜14:30 パネルディスカッション14:30〜16:00 会場 みくに文化未来館 入場 無料 主催 NPO法人三国湊魅力づくりPJ 共催 みくに歴史を生かすまちづくり推進協議会 後援 福井県・坂井市・坂井市教育委員会・福井新聞社

プログラム概要

あいさつ
松村忠祀(まつむらただのり) NPO法人三国湊魅力づくりPJ名誉理事長

1部…基調講演 13:30〜14:30 「帯の幅ほどある町を−三国湊に育つ想像力」

講師:
伊藤俊也(いとうしゅんや)氏  映画監督

 

2部…パネルディスカッション 14:30〜16:00 「風景と文化の履歴・想像力を生かしたまちづくりに向けて」

司会:中沢孝夫(なかざわたかお)氏  福井県立大学経済学部教授

パネラー:
伊藤俊也(いとうしゅんや)氏  映画監督
福嶋輝彦(ふくしまてるひこ)氏 厚生労働大臣政務秘書官
山崎洋子(やまざきようこ)氏  おけら牧場・ジェラートカルナ運営

あいさつ
大和久米登(やまとくめと) NPO法人三国湊魅力づくりPJ副理事長

第1部

あいさつ

越の国が、日本の古代社会において如何に大切な土地柄であるかを見付けたのは水稲作に最も適地であることを知った時にはじまる。即ち古代の日本の社会に水稲作がどれほど大切であるかを認識した時、新しい社会の構造が築かれ、社会作りがはじまった。そのことは、古代の日本歴史を考える時、非常に大きな意味を持っている。三国の湊もその時歴史の種が蒔かれた。 三国湊が、九頭竜川の河口に発達し、九頭竜川と歴史的に深く関わり、その地ノ利は、長良川に通じていた。 この越の国の稲作的風土が、日本列島で最も適地として注目したのは、能登を経て渡来した韓人(からびと)たちで、高句麗、百済、新羅などの先人たちであった。 三国湊は、大陸から渡航するに際しての良湊でもあり、日本古代社会の生成の礎ともなっていた。即ちそのことが、越の国と継体天皇の縁起を今日に伝承しているのである。 それに東大寺初期荘園を拓き、三国湊は要港の使命を果した。更に中世には、東大寺荘園から興福寺荘園に移行して三国湊を経由して良質の越前米が、奈良、京都へと運ばれていった。 中世には、道元禅師と越前風土が関わり、日本中世芸能史に新しい思想を創意させ、能、幸若などの表現を創出させた。やがて千利休による茶の世界を創造させた。そして桃山期の日本美術を開花させた世界の一つとなっているが、室町後半に栄えて約1世紀ばかりで滅亡した越前朝倉氏文化の世界を見落せない。この朝倉氏は、武将織田信長以上に西洋文明の存在に関心を深めていた。すなわち南蛮文化への世界であった。そのことを三国湊と関ってきた南蛮地図、風俗画などが物語っている。 幕末から近代にかけては、政治、経済、医学、文化などの分野に沢山の先覚者を輩出し、西洋土木工学の世界では、三国湊の河口に日本最初の洋風防波堤を築造し、龍翔館を造るなど当時の三国湊は、新しい世界の文明に応えて活かされていた。「茶の本」で周知の岡倉天心の母は三国湊の住人で、父は越前藩の出身であった。 こうした越前三国湊の先人の新しい時に対峙した地域創造の精神を、未来に対峙させて素敵な日々の三国にと大きな理想にもえて、今日の歴史を生かす街づくり文化フォーラムを聴講させて頂ければ幸いです。 この後最初に伊藤先生の基調講演を頂き、その後歴史を生かす街づくり文化フォーラムを中沢先生の司会によりまして伊藤先生、山崎洋子さん、福嶋輝彦さんのお二方を交えて話し合って頂きたく企画いたしましたので、最後までご清聴下さい。

総合司会

松村先生、どうもありがとうございました。それでは、本日のプログラムスケジュールをご説明いたします。第一部は、ただいまから、2時半まで、伊藤俊也監督によります基調講演、「帯の幅ほどある町を-三国湊に育つ想像力」と題しまして、基調講演をいただきます。その後、10分間の休憩を挟みまして、2時40分から、第2部のパネルディスカッション、「風景と文化の履歴-想像力を生かしたまちづくりにむけて」を行わせて頂きます。シンポジウム終了時間は午後4時を予定しております。長時間となりますが、どうぞ皆様最後までご傾聴下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。 それでは只今より、「帯の幅ほどある町を-三国湊に育つ想像力」と題しまして、伊藤俊也監督によります基調講演を始めさせて頂きます。伊藤俊也監督は、皆様もご存知のとおり、福井市ご出身で、福井県を代表する映画監督でいらっしゃいます。素晴らしい作品を、数多く世に生み出されており、三国にもゆかりの深い監督でいらっしゃいます。伊藤監督は、東映に入社後、「女囚701号・さそり」を監督されまして、日本映画監督協会新人奨励賞を受賞されました。フリーになられた後は、「さそり」三部作、「犬神の悪霊」などの映画を監督され、「誘拐報道」では、モントリオール世界映画祭審査員賞を、「花いちもんめ」では、日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞されました。2006年には、日本映画監督協会創立七十周年記念映画として、「映画監督って何だ」を監督されていらっしゃいます。また、2003年に、紫綬褒章を受章されています。現在では、福井ふるさと大使としても大変ご活躍されていらっしゃいます。今日は、文化や美、表現に真摯に向き合われている伊藤監督が、三国をどのように感じていらっしゃるのか、また、今後私たちが、どのような感性のもと、町づくりを展開していくといいのかなど、大変に貴重なお話をお聞かせくださいます。それでは、伊藤俊也監督、宜しく御願い致します。

伊藤俊也監督 基調講演「帯の幅ほどある町を−三国湊に育つ想像力」

ご紹介に預かりました、伊藤俊也です。今のご司会の方の紹介、それから先程の松村先生のご紹介で、やたら責任を感じつつ上った訳でございますけれども、私が多少とも、ここに自信を持って立っているというのか、立っていることが出来るというのは、私がここに帰ってくる者としての特権というものを、多少意識しているからだ、と言えると思います。それが、那辺にあるのか、どういう理由で、そうお前は言うのか、という話をまずはちょっと代わりに致しましょう。 私の伊藤という、父方の話しをすれば、父の父、というのは、三国の郡の役所、おそらく坂井郡役所に勤めておりまして、そこで日露戦争に行きまして、勲章を得て帰ってきて、私の母と父との結婚式には、その勲章姿で出たというような話を、伝え聞いております。父方の母は、本荘のほうの出身でして、たしか篠原家、といったかな、これも堀江石見の神のもと、かなり豊かな農家であったらしいのですけれども、何代か、芦原のほうで、入れあげてしまって、寝食を尽くした、というような話も聞いておりまして、父方の方もだいたいこの周辺で育った、というような。また、私の母方の祖父母というのも共に三国の出身でございまして、祖父藤田貞造は、三国の薬種屋、いわゆる薬屋の長男として生まれ、京都に丁稚奉公に行くわけで、東京に経って苦学をして、今の早稲田大学に聴講して、それで三国に帰ってきて、当時の三国新聞に勤めたようです。で、三国新聞からやがて、福井新聞に入り、長年編集長を務めた、という経歴の持ち主です。私の母方の祖母は、三上という名前なのですけれども、こちらは三国の豆腐屋さんが実家で、それでその二人の間に出来た第一子という私の母の兄、長子なのですが、この藤田良雄と言うのが、本人の書いたものによりますと、やはり産まれたのは明らかに三国で、それから一年少しで、父親の福井新聞屋の転身で福井に住んだと、そういうふうに聞いております。ですから、三国に生まれて三国に育った経緯で言えば、高見順並みに、僅かですけれども、やはり後々の話を色々聞くと、三国に対する思い入れというのは、人一倍強いようです。この叔父については、また後でちょっと述べることになるかと思います。私の祖母は、結局72歳のときに、その次男が、かつて、ブラジルの地に行っておりまして、向こうで同じ日本人と結婚して子供を三人育てておりましたが、わりと早くにその奥さんを亡くした、子供三人抱えている、という情報が、戦後ようやく、時間が経って連絡ついたときに、そういう風に知った母親としての祖母は、その晩年を、そのブラジルの土地で、子供たち三人を育て上げようという決意の元に、一人72歳、私が学生の頃でしたが、旅立って行きました。それで、あと12年ブラジルの地で過ごして、向こうのお墓に入っております。私は後年1980年のときに、一人サンパウロの土地に行きまして、祖母のお墓に参ることができました。考えてみれば、三国の土地に生まれ、三国に育ち、三国で第一子を得て、そして福井、東京と住んだ後に、はるかブラジルの地へ行って、サンパウロに死す、というこれもまた、一人の三国の女性の生き方として、私自身の想像力も刺激致します。そういうこともありまして、私も福井生まれなのですけれども、子供時代、私の海というのは、三国の海水浴場であり、そして、それに繋がる東尋坊や松島や雄島ということでした。そしてあの当時は、今の越前鉄道、かつての京福鉄道に揺られて、海水浴で非常に心地よく疲れた体を、窓の開いた電車の中で、田園の空気を吸いながら帰った、非常に心地よい思い出を持っております。当時、大抵は三国の海水浴場で泳いでおりましたけれども、一時期、三国にとってはあまり芳しくないうわさ、というか、どうも三国の海が汚れている、みたいな、一時期、そういう時期がありまして、こちらもちょっと大人になりかかりというところでもございましたし、その頃はわりと好んで岩浜のほう、松島とか雄島とか安島のほうですね、あの辺へ泳ぎに行ったという、しかも鮮やかな記憶がございます。ここまでならどうという事はないのですが、先程申しましたように、伊藤の墓、というのが、親父の系譜の流れで、伊藤の先祖代々の墓、というのが、駅に近い所にあります。今、錦というのかな。ちょうど駅から来ますと、氷川神社の横をまっすぐ突き当たった所にございます、智敬寺というのが、当家の墓が、先祖代々の墓があったところです。それだけなら、なんなんですけれども、親父は次男坊でしたし、もうその墓が満杯だということで、お袋がわりと早く68歳で今から二十数年前に亡くなりました。その時に母の墓というか、私たち一家の墓を、その敷地内に独立して作りました。ですから今、その後父は、94歳で今から6年前に亡くなりましたけれども、まずは母が入り、父が入った墓、というのが、この智敬寺にございます。ということは、私もいずれ、その場に帰ってくると。帰ってくる者の特権という風に先程申したのはそういうことでございます。父親の代から墓参りというのは、私たち、だいたい海水浴のついでに行く、という不届きな一家でして、ついでに墓へ行く、という慣わしが、私のせがれや孫の時代も続いておりまして、私の孫が、長男一家と長女の一家が夏一緒に来て、その智敬寺を弔う機会がありました。長男の長男というのが、まだ小学校に上がるか上がらないかといううちから、長女の方の一家のみんなから、それは娘の亭主以下その子供たちから、「長男の長男だから、お前がこの家はいずれお守りをしなくてはいけないんだ。ちゃんと心して掃除せよ。」というような事を言われてですね、小さいながらに一生懸命墓の掃除をしていた、という長男の長男の姿が今も鮮やかに思い出されます。その長男も来年は高校という年になりましたけれども、そんな事があるものですから、私にとっては、特にこういう形で三国に招いていただいて、そしてこういう形でお話をさせて頂く、というのは、大変ありがたいことであります。ただ、私としましては、ありがたい分、皆様にどういうお話をしてお返しが出来るのか、ということに関して、甚だ自信を欠くものですから、まずはその弁解というか、まずはこれにて、私も他人事でなく、三国を愛し、三国を気にする資格がある、ということを前提にしていただいて、多少あとの話の如何に関わらず、ご勘弁願うという気持ちでおるわけでございます。 私は、まず町づくりとか、これからの三国がどう生きるべきなのか、というようなことに関しては、特に専門家ではありませんし、特効薬というものを持って来ている訳でもございせん。ただ、私がやはり三国を大事に思う気持ちから言えば、ともかく三国に住んでいる人にとって、三国というのが、更に住み良い町、更に魅力的な町になっていって欲しいという事のみでございます。おそらく三国というのが住む人にとって素敵なものになれば、それはおのずからよその土地の人、また、福井県外の人にもその魅力は色々に伝わっていくものだと思います。もうすでに食の方面というか、特に日本海の海の幸とか、その他でもその魅力については、色んな方が、喋ったり書いたりする時代に入っております。もともと福井の知名度が低いという事とか、更にその中にある物の知名度の低さを、福井の人達は慨嘆する訳ですし、己を含めて、非常に宣伝下手だというか、そういうこともよく伝え聞くわけですけれども、私はあまりそういうものは、なかなか一朝一夕には変えられるものではなく、その売り込みの下手、には、やはりその裏に己を頼むプライドの高さと、そのプライドを保証する豊かな教養というものがあるのだ、と私は思っておりますし、そのことはむしろ欠点ではなくて、長所であるという風に私は思うべきではないかとすら思っております。そういう意味で改めて三国の人にとって、ともかく、住民にとっての町、というのは、古い言葉ではありますけれども、衣・食・住、これにかかるわけで、昔のように、「衣」という言葉が持っている意味合いというのはちょっと、二十一世紀の現代では、いくらか変わったのではないかという気がします。つまり、ただただ身につける、という意味の衣類、という意味ではなく、身につけるいろいろの教養も含め、文化も含め、そういう風に自らを装うもの、或いは自分の中に豊かさとして蓄えるもの、の象徴の一つとして、「衣」という言葉があるのではないかと思います。「食」は勿論、昔も変わらぬ人間の生活の大元としての「食」ですね、これは後程、おけら牧場の山崎さんを中心に語られることになると思いますので、これは省きますけれども、衣・食・住の「住」というのは、また、当然それは環境の事まで含まれて、今ある種の関心の中心、とくにこういう風に自然に恵まれている三国に於いては、やはり今後の開発と海の重みというか、自然の風物の保存というような問題、そういう問題というのは付き纏う問題ではあると思いますけれどもやはり、何はともあれ、三国湊の存在理由というのは、本当に何から始めても、豊かさに尽きるわけでして、この豊かさをどういう風に自任しながら、そして、またそこから、そこに安住するのではなくて、色々それを変えていく、自分たちの生活に、より良い生活のために変えていく発想というか、それが一番大事なんだろうと思います。そしてそのやっぱり、力の大元、というのは、想像力ではないかという風に思います。私なんか、俳優、特に若い俳優を目指す青年男女と接する機会が多いわけですけれども、私は俳優が何をすべきか、ということに対していつも何を言っているかというのは、一に想像力、二に想像力、三四も五も想像力、という風に申しております。勿論、俳優というのは、その想像力を生かす身体能力というか、それがただただ観念的な身体能力に留まっている限り、それは俳優の場合意味がないわけでして、それを、やはり、自分の身体をしてどう表現させるか、というところまで、自分の想像力を追い込まないといけないわけです。ですけれども、やはり、生活においても生活者としても、より良く生きる為に、この町の住民としてもより良く生きる為には、俳優にだけではなく、やはり、一に想像力なのではないかな、という気がします。そしてその想像力とそのいわゆる住民の暮らし、そしてある種観光というか、外から来る人達をどう出迎えるか、というこの按配といいますか、その辺が皆さんも東尋坊を抱えられ、そしてまた、風光明媚な松島から雄島、そして特にみなさんもお住みになっている三国湊の町並みの保存とか、そういうことに日々、ご苦労されていると思う訳ですけれども、そういう事の例として、私が去年たまたまスペインのサン・セバスチャン映画祭というのに招かれまして、ちょっと行ってきた時の経験、そしてそのサン・セバスチャンの一つの暮らし向きというか、その町の人達の表情というか、姿勢というか、そういうものの一端をちょっとお知らせしようと思います。 サン・セバスチャンというのは、バルセロナからも、マドリッドからも、飛行機で一時間半ぐらいかかる、スペインで言うと一番北側にある、海沿いの町です。もうちょっと行くと、フランス国境沿い、ということで、昔から何度も戦争の侵略を受けたりして、そしてバスク地方という独特の独立運動なんかがありまして、非常に古い教会等にも弾痕の痕が鮮やかに残っているような場所なのですけれども、これはまた同時に、極めて典型的な保養地、観光地でもあるんですね。ちょうど三国の浜を想像して頂ければいいのですけれども、三国の浜もこうぐるっと回って、若ゑびすと私たち昔から言っておりますけれども、あの突端と、それから方やエッセル作った突堤という形でちょうど、非常に手ごろな形の海岸、海浜になっております。あれが、私なんかも、とっても馴染める、というか落ち着く海水浴場だったわけですけれども丁度ああいう形でサン・セバスチャンも、海浜沿いに丁度それを抱え込む形で、土地が外にせり出しております。ただ三国と違って、両方とも少し小高くなっていて、片方にはキリスト像が湾を見下ろしている様な格好になっておりますし、片方には、やはり砦の址みたいなのが建っておりまして、今は少し、遊園地みたいなのにもなっております。丁度それが、抱え込むような、真ん中に小さい島が、お誂え向きにありまして、これは真珠の首飾りという風に呼ばれたりもする、本当にもう、絵に描いたような観光地でもあるわけですね。ですから、これはもう観光地として、或いは保養地として、勿論別荘もありますし、ヨーロッパからも、またスペインからも、客を集めております。その海岸沿いには、三国でいうと、浜茶屋があって、駐車場があって、そして道路があって、民宿なり旅館がこう並んでいるという形になっている訳ですけれども、その町は、丁度砂浜を囲むように、回廊が海岸に沿って少し高く作られておりまして、それが遊歩道になっているわけですね。しかも右方の奥には、ですから、遊び用のヨットもその島を挟む海上には、結構並んでるのですが、右方のほうには、いわゆる漁港が小さくまとまって船泊まりになっておりまして、その漁港のところには、そのいわゆる独特のレストランなんていうのが2、3件こうあったりする。そしてその丁度裏側に、川が流れている、という三国湊にとって九頭竜川というのは、逆に町も、九頭竜に沿って海のごとくに長くなったというのがある位ですね、海浜と川というのは一体化してるわけですけれども、そこは少し川との距離があって海側から川へもワンブロックぐらいの町が作られている、そういうような構造ですね。ともかく、最初に行きまして、私のその時上映しましたのは、先程紹介いただいた私の「女囚701号・さそり」という私のデビュー作だったんですね。それが何回か上映されるんですけれども、夜の十時半開演、というようなスケジュールなんですね。いくら何でも十時半からやったのではお客さんなんて来るのかな、と思っていたらにわか、とんでもない。ぞろぞろぞろぞろもう凄いんですよ。それも同時に最近流行のシネマコンプレックスになっているような建物なので、7つぐらい劇場があるわけですね。この客がまた、7つに分かれるのだけれども、果たして客席は埋まるのかな、と危惧しておりましたら、それもまた満杯になるというような状態で、ともかくその映画祭が二週間位続いていたわけなのですけれども、その間ですね、その間というか、季節のいい丁度9月の半ば過ぎでしたから、季節もいいのですけれども、ともかく、その夜も、その町の一角は、いわゆるバールとか、いわゆるバーですね。もうほとんど向こうのものは、立ち飲み。みんなあんまり安定して座らずにだいたい立ち飲み、食いをしてる訳ですけれども、そういうバールと、レストランとか、結構ひしめき合っているブロックは、もう夜中まで、町がぞろぞろ賑わっておりまして、ともかく、その映画祭に来ている人達と、それから保養に来ている人達と、町の市民とが、入り乱れて賑やかな夜を形作っておりました。その映画祭に事寄せて、非常に町の人達も、興奮を映画関係者と一緒に持ち合わせているんだな、というような感じを、その時も持っていたわけですけれども、ある晩、私が、自分の映画の上映で、その時確か十時半から開始だったと思います。映画だけでも、一時間半ちょっとですから、当然十二時過ぎてしまう。私も挨拶をしたりなんのかんのして、1時近くになっても、まだ、お客さんが引き上げていかないという、そういう夜を経験した翌日、私が町へ出て目抜き通りにiという文字の出た、いわゆるインフォメーションですね、町のインフォメーションがありましたので、中に入ってちょっと全体の大きな地図を貰おうと思いまして、そして受付嬢にその地図を欲しい、と言いましたら、私が声を掛けた受付嬢ではなかったのですけれども、すぐ隣にいた受付嬢が、「あ、昨日の、挨拶した映画監督さんですね。」という風に声を掛けてきたわけですね。「そうですけれども。」という事を言いましたら、「私昨日観ましたよ。あなたは何か、30何年前の話として、あの時70年代の雰囲気は、よく伝えたと思うけれども、今見てもらってどうだろう、という風に挨拶されていたけれども、今見てもなかなかナウかったわよ。」ってな事を、言ってくれた訳ですね。それは当然そういう言い方をしてくれるという事は、私にとっては、大変喜ばしいことであったのですけれども、それ以上に、そのインフォメーションにたまたまいるその女性が、昨日の晩あんな遅く十時半から十二時過ぎまで、映画祭の中の、一つの催しの中に、ちゃんとそこに座っていて、そしてそれはそれで、映画観客として楽しみながら、また次の日には、そこの町の住民として、そういう自分の仕事をこなしながら、そして異国からやって来た一映画監督と、そういう会話を楽しむ、という。まさにこう、観光土地の一つの在り様と言いますか、ただただもてなすだけじゃない、自らも楽しむという、この事が出来てこその、より良い観光地としての証だなぁ、という風に私は強く感じた事でございます。何というのか、非常にそういう意味で、三国もまた、背景には豊かな歴史、文化、財産を持っている町ですし、そういう事を外に知らせながら、自らどんどんそういうものを開拓していって、そして自ら楽しむ。そういうことが恐らくは、将来的に言えば、子供たちを育て、青少年をも、いずれは三国から羽ばたかせるにしても、日本の隅々、あるいは世界へも、送り出せることになるのではないのかな、という風に思いました。私、一昨年、ちょうど継体1500年ということで、柄にもなく、春江にあります、みなさんだったらすぐ名前が出てくるのでしょうけれども、市民会館、市民ホールみたいな所で、継体シンポジウムが行われまして、そこでもちょっと講演する機会がありまして、その時のタイトルは、「父なる継体、母なる九頭竜」という風にちょっとはったりを効かせたタイトルを付けたのですけれども、私も別に、父なる継体、と言いましても天皇主義者でもありませんし、母なる九頭竜と言っても、特別なエコロジストじゃないのですけれども、むしろ本意としては、かつて、袁本杼命(おおどのみこと)が大和の国へ攻め上ったのかどうかはともかくとして、はるか雄飛して発ったように、ともかく、越の国の青年男女よ、少年少女よ、この気概を持って、世界に旅立って欲しいという、私のそういうものを本意としたわけです。その時に私は初めて知ったのですけれども、この三国のご出身で、しかも長いこと教育畑におられて、或いは教育長をなさっていた方ではないか、と私は思うのでありますけれども、オモノさん、お面の面に、野原の野、と書く、面野フジシとお読みするのでしょうか、伊藤の藤、藤の花の藤に、志。この方の作詞された、加戸小学校校歌というものに、決してその、継体1500年という流行で言うのではない、本当にもっと先んじて、こういう歌詞がある事を、発見しました。これは、加戸小学校の校歌です。この方、雄島小学校の校歌も書いておられますし、三国の小学校校歌、中学校校歌というのは、なかなか多種細細が書かれておりまして、どれも魅力的なのですけれども、加戸小学校の校歌、私が注目したのは、 古き代に おおとのみこの 拓きたる 九頭竜遠く光るなり 幸多き里 加戸の丘 幼きわれら手をとりて 心正しくすこやかに 母校のほまれ たたえなむ 次に二番も言いますけれども、 たたなわる 越の山なみ 雪に映え 潮ざいはるか 日本海 茶の花かおる 加戸の丘 まことの道をきわめんと 育む夢も 清らかに 永久に栄えん わが母校 と歌います。この「古き代に おおとのみこの 拓きたる 九頭竜遠く光るなり」こういう、非常に想像力豊かに子供の心をも歴史に導き、さらに大いなる世界へと導く、こういう作詞家が教育者としておられる三国の一面というのも、やはり素晴らしい、の一言に尽きるかと思います。私もちょうど、生まれが福井の足羽川に面した所で、今も、父も母もいなくなった母屋が、足羽川に面する、足羽川と足羽山をちょうど見晴らせる場所に建っております。ここは昔、御船町、という名前がありました。上御船、下御船、なんて言うのですけれども、それは当然、三国と九頭竜川、日野川、足羽川と辿って来て、そういう一自治の交通の証としてあることは明らかでしたので、私も昔から海水浴場だけの三国ではなくて、そういう福井市と繋がりのある、九頭竜川を通じた世界、というものを、理解することが出来ました。そういうところから見れば、三国という町も、その視点からみることも出来るし、また三国の側から、この九頭竜流域を見直すことも出来る。やはりそういう形で、三国の豊かさを、さらにいっそう広めることも出来るであろう、という気が致します。今もって、たまたまサン・セバスチャンの話をしましたけれども、そこにも砲台があるのですね。三国にも、かつての丸岡藩の砲台があるはずで、丸岡藩とはかつて、いわゆる福井藩の仕切っていた三国湊、という海軍の町としての三国湊と、滝谷出村の方にありました、丸岡藩のほうのいわゆる三国小女郎たちの花魁たちが活躍した町とが、色々圏域争いで、かなり争ったという歴史もあるわけですけれども、今や、坂井市という形で、かたや特色のある丸岡と、同伴される事になった、という事は、これもまた、内陸者の意識としては色々あるかもしれませんけれども、私など、少し外側の視点を持っている者にとっては、非常に興味深い事柄であります。また、そういう三国を基点に、あわらとの提携、また、丸岡、金津、それから北潟湖、吉崎との関わり、ルートの設定というような事も、色んな面で、三国の利益にもなるのではないか、と思います。それに確か、宮崎の延岡と姉妹都市だったか、と記憶するのですけれども、私もうちょっと姉妹都市的な考え方も、もうちょっと近くに及んでもいいのではないかと思います。例えば、昔から福井県の長所と短所というのは、越前若狭というように、非常に二つの面白い領域を持ちながら、これをなかなか福井県という形で統合しにくい、そういう事が、楽しみでもあり、悩みでもあった、という風に私自身理解しているわけですけれども、常に、例えば、三国を中心としたこちらへ、県外から来ても、三国を見、慌しく永平寺を見、去っていく、というようなケースから言って、やはり、越前若狭を結ぶ形の中で、小浜から来た人には、三国あわらで泊まって頂く、三国あわらを基点にした人には、小浜の方へ行って泊まって頂くというのは、県全体で考える一つのイメージ作りを必要としているのではないかな、という話を、これはふるさと大使の立場としても、話していたことがありますけれども、そういう事も考えてもいいのではないか、つまり、主体都市にする必要はないのですけれども、やっぱり、若狭の方の同じ福井歴史を持つ小浜とか、高浜との交流というようなことも、あっていいのではないかと思います。ともかく、「帯の幅ほどある町を」なんていう素敵な歌詞を持っている、しかも三国節という、非常に全国的にも名の知れた歌を持った町、というものは、キャッチフレーズを公募しなくても、既に天から頂いたようなもので、この「帯の幅ほどある」という、このキャッチフレーズは、今後にも充分生かされるのではないかと。私としては、もっと帯のイメージというか、今でこそ、和服を着る人が少なくなって、帯というのが、女性からもちょっと遠くなっているかもしれないけれども、特に、この外側から来る人達が、どんどん中心が、男性客より女性客になっている以上、この帯のイメージと、細長い三国のイメージを歩かせる、というのか、散策してもらうという、この結びつきというのは、やはり生かせるのではないかと。特に三国祭りとか、素敵な財産を沢山持っている訳ですから、そういうこととかにも、道の拓きようが色々あるのではないかな、という気がします。最後に、ちょっと先程、もう一度返る、と申しました、私の叔父に関してですけれども、この人は、たった一、二年とはいえ、その点で言えば、高見順さんと同じ位の比率ですけれども、やがて福井に出まして、そして、東京へ行き、星へのあこがれから、天文学博士として、色々な実績を持ち、そして、低温度星の研究という分野では、世界的な権威にもなった男です。結局1996年から2000年まで、日本学士の院長も務めました。そしてその院長時代、1999年の正月の歌会始の時に、召人として、こんな歌を作っております。 青空の星を極むとマウナケア動き染めにし昴たたゆむ これは、マウナケアというのは、ご周知のように、ハワイのマウナケア、この丘に、東京天文台が、昴望遠鏡を据えた訳ですね。そして、宇宙の先まで、非常に先端的な研究がさらに進んだ、ということがございます。でこの人は今、100歳に、去年の9月28日に100歳になりましたけれども、今もってかくしゃくとしております。私が三国でみなさんにこんな話を聞いて頂いた、という話、それから後で、みなさんからこんな話を聞けた、という話を近々に報告に行こうと思っている訳ですけれども、きっと喜んでくれるだろうと思っております。この今の時代ですから、この叔父がもう一つ、例えば、ノーベル賞でも取ってくれていたら、それは三国の人達にとっても非常に財産に、利用出来たのでしょうけれども、私は日ごろから考えておりますけれども、少しでも名前が世間に出るようになった人は、どこか嘘っぽく、本当の本物というのは、最後の最後まで見えている、という人であるに違いないと、私は固く信じている訳ですが、その程度にちょっと名前が残って、学士院長であった叔父を、今更のごとく、こいつもまた三国の出身だから、とみなさんに押し付けるのもどうかと思いますけれども、三国の力で、星へのあこがれを抱いた少年が、やがては世界に巣立っていったように、三国の少年少女から、広くは世界に向けて、素晴らしい人材が育っていくことを、私は何よりも願っております。また、今日はそういう少年少女たちのご両親という方よりは、もうちょっと私の年代に近い方のほうが多いように思いますけれども、どうか、お孫さんたち、そしてこれから生まれてくる人達の力になって、そういう三国人を、この三国の町から輩出して頂ければと私も強く願うことを最後に申しまして、いずれ帰ってくる私としての全体のご挨拶に代えさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

総合司会

どうも、貴重なスピーチをありがとうございました。私たち三国に住んでおります人間は、本当に三国をいい町だ、と思っています。そして先程のスペインのサン・セバスチャンの映画祭なんかも、三国の海岸を思い浮かべながらお話を伺っておりました。やはりそういう芸術に携わるにも、生きていくにも、想像力がとても大切だ、というお話も、今まで聞いたことがありそうでないような気がしました。皆様いかがでしたか。これからも、私たちの生活を楽しく潤いのあるものにし、そしてさらに三国の魅力を盛り上げて行きたいと思います。伊藤監督、本当に、貴重なお話をありがとうございました。皆様今一度盛大な拍手をお送りくださいませ。 それでは、ここで10分間の休憩とさせていただきます。第二部の開演は2時50分からでございます。引き続き第二部も皆様ご参加下さいます様お願い申し上げます。それから、皆様のお手元の方にアンケートを2種類お配りしておりますが、この2種類のアンケートにお答えいただきまして、回収、最後の方に受付で致します。ご協力いただけました方には、きたまえ通りの三國湊座、ジェラートとスイーツのカルナ、カフェ・タブノキ様でご利用いただけます食券をお礼として差し上げておりますので、是非アンケートにご協力頂けます様お願いいたします。

総合司会 それでは中沢先生、よろしくお願い致します。

第2部

パネルディスカッション「風景と文化の履歴・想像力を生かしたまちづくりに向けて」

中沢

ご紹介頂きました、中沢でございます。大学では今ご紹介頂いた様に、地域開発論、これは地域活性化論なのですが、地域開発論という授業と中小企業論と、二つやっております。こちらに来たのは、県立大学の大学院で教えるために、参りました。実はですね、今日進行役をお引き受けしたのですが、今日これまでみなさんお聞きしたように、松村さんと伊藤監督という、この町を知り尽くしたお二人のお話があったのですが、実は私は、この町についてほとんど知らない、来て一年、なのですね。だけど単なる観光客として、毎月来ているのです。遠くから友達が来るたびに、福井の中で案内する場所が決まっておりまして、一乗谷とここは、必ず来る、という所なのですね。どうしてそうなのか、ということを、みなさんのご意見を伺う前にちょっと私のほうから、報告をさせて頂きたい。では、進行についてちょっとご説明いたしますと、私がまず、少しだけお話させて頂いて、これは、外から見た福井、外から見た三国、についてです。その後、三人のパネラーのご三人の方からご意見を聞きつつ、会場のみなさんから、私たちの討論のあり方について、或いは討論とは無関係に、私はこれを言いたい、というようなことがあったら是非、ご意見を求めたいと思っております。一応、スケジュールは2時間、ということになっておりますけれども、シンポジウムを2時間というのは、私は多すぎると思っておりますので、20~30分は繰り上げようと思っております。 早速ですけれども、私はちょっとだけお話させていただきますが、専門の中小企業論のほうで、こちらに来てまだ一年なのですが、今度のゴールデンウィーク明けに岩波書店から、「中小企業は進化する」という本を出すのですが、その中心は、福井が物語の舞台なのですね。これは、福井の歴史的な繊維産業や眼鏡産業から、どのようにして、世界的な先端技術を手に入れたのか、そして、福井の持っている技術というのが、日本の国内で、例えば東大阪とか、東京の大田区とか、或いは東海地方、豊田の周辺とか、そういったところと比べて、なお優れているのはどういう点なのか、というのを物語の中心にしたのですね。実は私物語を書くのが仕事なのですけれども、ただ、福井のことを福井だけで語ってもあんまり意味がないのです。それはご当地ソングになってしまうのです。大切なのは、私から言わせると、例えば鯖江の眼鏡産業で、眼鏡の淵のところのネジを作っていた。そのネジの加工から、段々チタンの加工に転換していって、今医療機器を作るためには欠かせない、チタンの精密加工技術を持っているという会社があるわけですね。チタンというのは、削ると熱を出す、という非常に厄介な材料、素材、なのですけれども、それを加工する、というのはとても難しい。しかし、チタンというのは、軽くて丈夫で、例えば人工の骨なんか作るのには欠かせないものとして成長することがはっきりしているのですね。そうした加工する技術であるとかは、そういうものを追っかけていくと、非常に面白い地域なのですね。これからも新しいラインナップで、来週からまた取材に入るのですが、もう一つ、そういった製造業の分野も優れているけれども、私は福井へ来て、来る前からそうは思っていたのですが、福井というのはどういう所なのか、というと、安いものが旨い地域なのですね。特に安い酒が旨いのですよ。高い酒がおいしい、というのは当たり前なのです。全国どこへ行ったって、一升一万円も出すと、うんとおいしい酒が呑める。ここはとても安い酒がおいしいのですね。どこの地域へ行っても。地酒が。なかなか優れているな、と。もう一つですね、歩いて楽しい町、歩いていて楽しいというのが、非常に多いのです、これが。 町作りの理論というか、理屈というのがあるのですけれども、その中で、地域開発論とか地域活性化論とか、或いは町作り論というのを、テーマとしている学者であるならば、必ず読まなければならない本、というのがあるのですよ。その一つが、つい何年か前に94歳で死んだ、ジェイ・ジェイコブスという、アメリカの都市論を書いている女性がいたのですが、その人が、よい町、栄える町、豊かな町、そういう町の特徴点というのは何なのか、というのを挙げているのですね。それはまず一つ、古い建物と新しい建物が、入り混じっている町。これがまず、第一条件。二つ目が、路地が多くて、幾重にも曲がりくねった道のある町。これが、二つ目なのですね。遠くまで、したがって、見渡せない町、ということなのです。次に、お店であるとか、住宅であるとか、事務所であるというのが、混在している町。これが、よい町である、という風に挙げているのですね。その条件が当てはまっている、典型的な町はどこかというと、京都なのです。古い建物と新しい建物が混在し、路地があって遠くまで見渡せない。様々な業種が入り乱れている。三国湊というのは、その条件が全部あてはまっている町なのです、この町は。それで私が最初にこの町に来たのは、こういう町がある、ということを知って来た訳ではなくて、滝谷寺という寺があるということだけ聞いた。それで家内とドライブで来て、滝谷寺に行って、そしたら、あの門前からアプローチのすばらしさは、大変なものなのですね。それ以来、いつも友達を連れてくるのは、まず、滝谷寺。滝谷寺に来た後、ちょっと待て、と。この町、三国湊の湊がさんずいに奏でる、の方の湊になっているぞ、と。かみさんと、うん、これは何かコンセプトを持っている町だね、という、何となくそんな感じがしたのですね。それでちょっと歩いてみるかと、車を置いて、街中を歩いて、森田銀行の前の通りにさしかかって、あ、これはすごい、と思ったのですね。これは意識的に保存しよう、それで再生させようという意識的な努力が無い限り、こういう町は出来てこない。これはすぐ分かります。これはすばらしい、ということで歩き始めて、森田銀行の前の通りだけではなくて、あちこちに歩くのに丁度よい手ごろな路地が無数にある。それ以来、この町が大好きになって、年がら年中来ている、というこういう状態ですね。例えば、さっき言った、路地があって、というこの町と、逆のところ、というのはどんなところがあるだろうか、といいますと、それは例えば、大阪で言いますと千里のニュータウン、東京で言いますと多摩ニュータウン、みたいな所、なのですね。それは、昭和40年代にいきなり大きな町が出来て、というそういう大きい町は、生命力が無いのです。というのは、一挙に出来上がった町、というのは、出来上がった瞬間がピークで、その翌日からどんどん古びていって、しかも歴史に残るような建物がないですから、年齢層が住んでいる年齢層も変わらないのですね。様々な階層がいない。だからそういう町というのは、30年ぐらいしか生命力を持たない。これは公団に頼まれて私も町の再生の委員会なんかをやったことがあるのですけれども、別のコンセプトを持ってこないとだめだな、と。こういう三国湊みたいな、様々な文化的歴史をもったところというのは、掘り返せるところが無数にある。町作りの話で今日は来たわけではないので、簡単にしますけれども、今、様々な旅行業者とかそういったところとかが、夏なんかどんどんどんどんこの町に来る。なるほどな、と思うのです。 日本中いま、観光観光と言っているのですが、町おこしのために観光と言っているところが無数にあるのですけれども、大体失敗した。大体失敗しているのです。今観光地で増えているのは、京都と沖縄だけ、なのですよね。ところが、そういう中でもって、この町というのは、わずかながら、外から見に来る人が増えているのです。これは、やっぱり私に言わせると、芦原というのはいい温泉だと思う。しかしあそこはそぞろ歩きをする町ではないのです。旅館に入ったらそれでおしまいなのです。そぞろ歩きする町ではない。なんとなく小一時間ぶらぶらするところ、というとこの町になってくるのですね。しかし、この町は、遠くからわざわざ泊まりに来る、というそういう場所でもない。そうすると、この一体の中で、数時間ずつ過ごす場所があれば、芦原温泉に泊まればそれでいいわけですね。それにあと、ここにもうちょっと小さなホテルが出来る方がいいかもしれない、とは思うのですけれども、多分、この町の存在というのは、この周辺の町にとっても、とても大きいものである、という風に、私は遠くから見ているのですね。今日は、こちらに来るのに、知らない、ということを条件として来たのですけれども、ただ、知らないよその人間が見たらどうなるか、というのも一つの物の見方なのです、これは。ましてや知り尽くしている人にとっては当たり前のことが、そうではないものとして見えますから。私は今日、最初に本を、福井を舞台に書くんだ、と言ったのですけれども、実は、ブランド、という言葉がございますが、ブランド、というのはどういう意味を持っているのか、と言いますと、ある種の物語を持っている、というそういう面があるのですね。例えば、ルイ・ヴィトンというバッグがある。それはそもそも王妃様が、自分の衣装ケースを作らせる職人を呼んで、で、その職人が旅行鞄を作るようになって、という物語を持っているのですね。そういう風に、何らかの形で説明できる、或いは、みんなが説明を始める、そういう地域が、ブランド化してくるという風に思っているわけですね。皆が語りたがるような町。もう一つは、観光地になるには、リピーターがいないことには観光地というのは成り立たない。一回来たらおしまい、というのはダメなのです。何度も来たがる。何度も来るには、基本は変らないけれども、部分的にいつも新しいものが起きている。これが大事なのですね。この町は、こういうところでもピタリと来ているな、という風に思っています。物語もあるのです。ただし、その物語の書き方が、おそらくまだ足りない、という風に思っています。もっと別の角度から、だれか別の方が書いたほうがよかろう。これは私自身のビジネスの問題なのですけれども、私は色んな新聞雑誌に原稿を書くのが仕事でございますので、自分のビジネスとして、この町については後で利用させてもらおう、というそういう気分もちょっとあるのですね。みなさんにとっては当たり前のこと、私にとっては新鮮である、で、私の読者にとってもそれは新鮮である、という風に思っておりますので、それはそれで利用させてもらおう、という風に私は思っております。では、なぜ物語りになってこなかったのか。地域には、さっきのお話にあったように、沢山の文化的な蓄積があるのに、それが開化してこないのはどうしてなのかな。これは実は福井全体、越前も若狭もそうなのですけれども、何が欠点か、ということなのですね。外から来て、あれ、と思うのは、多分この地域は、あんまり困ったことがないな、という感じがするのです。 私は群馬県の山で生まれたものですから、土地が悪くて米が採れない。それで、魚も無い。僕が子供のとき、魚というのは塩鮭とかそんな物だったのですよ。生の魚、というのは鯉だけだったのですね。冷蔵庫なかったですから、昭和20年代なんていうのは。それで、塩鮭か、さんまの開きぐらいだったのですよ。それ以外の魚を食べると、大体蕁麻疹が出来る、という所なのですね。それで米採れない。せいぜい蕎麦ですよ。お蕎麦ぐらいですよね。後は桑畑、という感じで、もう、滅茶苦茶貧しかったのですね。ところが福井というのは、海のものも山のものもみんな豊か、なのですよ。いや、ご近所で一家心中があったよ、なんて話を皆さん聞いたことないんじゃないかな、と思うのです。基本的に食えちゃうところなのですよ、ここは豊かで。それで、隣近所に親戚が住んでたりするから、益々助け合ったりなんかするのですね。それが、何故悪いのか、というと、悪いことではないのですけれども、例えば、人間というのは、失敗から学ぶ、というのは当たり前の事なのですね。失敗から学ぶことは出来るのです。および、逆境を克服する、これも出来るのですよ。困難があったらそれに対してどうやって克服していくか、これも出来るのです。失敗から学ぶこと、逆境を越えること。しかし、その逆、順境を、幸せであるところを、自分がそれを壊すことが出来るだろうか。今のままでそれほど不幸せではない、という状態があるときに、そこからあえて飛び出して、それを壊して、未来を作ろうとする程人間というのは強いものだろうか、というと、どうもそうじゃない。順境は人をスポイルする。そういう面があるのだ、と思うのですね。越前も若狭も、やはり私はどちらかというと、幸せな地域であったに違いないと思わざるを得ないのです。そうすると、でかい声を出して、俺が俺が、と言う人間がいなくなっちゃうのですよ。ちょっとどけ、俺がやる、というのがいなくなっちゃうのですよ、皆。ま、いいんじゃない、とそういう感じになってしまうのですね。それは長所であり、欠点であるところですね。だから私は、越前若狭の人は共に、もうちょっと前へ出て行く必要があろう、というそんな感じがしますね。それに関わらずもう一つ、マイナスなのか、プラスなのか、私にはよく分からないのですけれども、福井の市内で、市民と、今現在私は、住民票は福井にあるから福井の市民なのですけれども、地域の人達と懇親会があった時に、外から見た福井についてちょっと喋ってくれ、というからいいですよ、と。実は、福井というのは何かというと、ギリシャ悲劇と共通している面がある。ギリシャ悲劇とは何なのか、というと、コンセプト、つまりギリシャ悲劇の中心的なテーマ、というのは何なのか、という事ですね。滅びるものが美しいのだ、とこういう考え方なのですね。滅びるものは雄雄しいのだ、というこれがギリシャ悲劇なのですよ。それで実は、福井越前というのは、滅びる美しさを持っている所なのですね。私はいつも、遠くから友達が来た時に、この三国湊と、もう一つ連れて行くのが、朝倉氏の遺跡なのですね。一乗谷に、なるべく朝行くのです。霧の巻いた一乗谷ですね。こんな美しいところに家城を作って、ここで滅びていったのか。すばらしいな、という感じがしたのですね。滅びる美しさがそこにある。これはギリシャ悲劇の世界である、とこういう風に思っておりまして、実は、私が越前について語る、或いは若狭について語ると、ほとんど事実をよく知らないで、一方的に興奮している、というそれだけのことなのですね。つまり、本当は昭和の女かもしれないのに、見た目が美しいので興奮しちゃってる。それと同じような感じが今あるのですよ。だからもう少しこれから冷静に相手を見よう、という風に思っておりまして、その為に今日もここに来て、みなさんのお話を伺うと、こういうつもりで参りました。 私の報告の最後として付け加えさせて頂きますけれども、私は、三国湊の勝手な応援団という風に名乗っておりまして、三国の人には迷惑かもしれないけれども、私は勝手な応援団である、とそういう立場で参りました。今日は、三国を知り尽くした、三人のパネラーがおりますので、私も一番三国を知らない聴衆の一人として、御三人の方から、ご意見をお伺いしたいと思うのです。創造力を生かした町作りに向けて、ということですけれども、先程伊藤監督が、一時間に渡って素晴らしいお話を聞かせて下さったのですが、パネルディスカッションの方の、風景と文化の履歴を念頭に置きながら、どんなことでも結構なのですけれども、一方的にお話をいただければ、と思います。よろしくお願い致します。

伊藤監督

今、司会の中沢先生のお話を聞きながら、福井はすごい応援団というか、素晴らしい人を県立大学が迎えたな、という事を感じました。お話を伺っていると、私なんか、三国にたった一言で言えば、自分の帰るべきお墓があるから、少し図々しく立ち居振る舞いも許してくれ、という、一言で言えばその程度のものであって、私のイメージの中には、かつての青春期に楽しんだ、三国との接点しかないわけでして、非常に好意的にも、また、かたや非常に冷静な目で見ていただける、中沢先生の登場というのは、今後の三国にとっても、大変な財産になるだろうと思うし、これは心して、絶対放すなよ、という風に私自身もこの三国湊のプロジェクトの諸兄諸姉に言いたいと思います。今後ともよろしくお願いします。私も福井人の一人として、あんまり商売に関してはうまくないし、自分の売り込みも下手だし、どちらかというと、自分がこの何十年来過ごした映画界でも、監督として、うるさくって面倒くさくって、あんまり関わらない方がいい、色々そういうややこしい監督、というのかな、なかなか面倒で、監督として割と敬されて遠ざけられる、というかそういう傾向があったように思うし、その辺がやはり、私自身の撮影所時代というのも本当に丁度、六十年安保の年に始まり、七十年闘争というのを経て、先に監督になる道があるのかどうかと言うくらい、過酷な助監督時代を送ったように思います。というのは、殆ど会社と対立せざるを得なくて、会社の中で誰か私に手を差し伸べてくれなくてもいい、こっちが無理やり監督になるのだ、とそういう一つの狭き門をこじ開けることが出来るのか、という事につくづく直面し立ち会った経験を持つ者として、かろうじてその狭き門を潜り抜けて、今日までやってきましたけれども、どちらかというと、映画を一本も撮らずしてなおかつ作家である、というその事にのみ、自ら賭けてもいい。そして、賭けても、なおかつ、その自ら恃むところの志さえ持っていれば、何も恐くないのだ。という風に、どこかでこう自己満足してしまう、というそういう傾向もあったように思うのですね。私の場合には、少なくともそういう激動の時代を過しましたけれども、やっぱり、大学から直通で定期採用という形で撮影所の門に入った、ということが前提としてありますし、何の拠り所もない所から這い上がって、映画を一本でも二本でも撮るのだ、という人達に比べて、やっぱり自分の売込みにも、また、自分の基本的な売り出し方についても、どこかで武士は食わねど、という傾向があったろうな、ということを自覚せざるを得ません。そういう意味では、中沢先生のご指摘というか、福井の人間、三国の人間も含めて、そこまで必至な状況になかったのだろうということがあるのかもしれません。ただ、私は開き直って、先程もちらっと言いましたけれども、やっぱりどこかで自らに恃む心、というか、そこから全ては出発するのだ、という位の気概は持ち合わせていたと思うし、また、その持つところから始めれば、町作りの基本というか、そういう己が暮らす町を何とかするという、世間に向けてではないかもしれないけれども、内側に向かっては、誇り高き町なのだ、というそういう心構え、というのが原点として、何らかの寄与をすることになるのではないか、とは思います。そういう所で、しかしそんなことを言っていてもしょうがない訳で、本当に頼もしい中沢先生のご意見や、そして外側からのチ、というか、外側のチ、というのは知恵の知であり、血液の血のことを言うわけですけれども、そういうチ、が導入されることによって、新たな変化、というのは基本的に生じるものだと思います。そしてまたそういう関心でもって、こういうシンポジウムなり、セミナーが行われるということもまた、三国の人達自身の新しい時間の中でなされていることだし、そこから既に、変化は始まっているだろうという風に思います。一応、以上です。

中沢

どうもありがとうございます。続いて、山崎さん。

山崎

三国の陣ヶ岡で、農業をやっております、山崎と申します。今町おこしを、三国湊魅力づくりプロジェクトというのが出来て、三国の中に人通りが出来て活性化するにはどうしたらいいかというのを4年前ですか、提案を頂きまして、三国の町と農村部の私たちの所をどうやって繋ぐか、食べ物で繋ぐ。地域で採れた季節のものを使って、三国の良さを打ち出していくものをというところで、それでカルナというジェラード屋さんを、町の中で開かせてもらってやっています。先程、中沢先生の、古い建物、新しい建物が入り混じっている、それから路地が多くて幾つも曲がりくねっていて、それから先が見えない、それから色んなお店なり事務所が混在している、というのは、三国はぴったり当たっているのです。その他に三国が他にない良いところというのは、ここは港があって、漁港があって、それで海のものが豊かである。港があったために船乗りの人達が多くて、外からの意識、人達を迎え入れる心の幅があって、そういうものが私達が途中から乗り込んできても、受け入れてもらうことができたのだと思います。何も知らなくて何ももたないものが、山の中で開墾を始めて、私たちここへ来てもう三十数年が経ちました。学生運動の後でしたので、赤軍派の残党が山の中で何かを始めているらしいと言って、毎月、駐在所のお巡りさんが、誰が何をやっているのか調べにみえました。その頃は中古の軽トラを5万円で買いまして、採れた野菜などを町の中に売り歩いたのですね。その軽トラというのが、片方のライトが点かなくて、夕方までに戻ってこないと違反で、捕まっちゃうので、夕方は日のくれないうちに早く帰って来るという事をやっていました。町の一軒一軒の家を訪ねて買っていただいて、残ったものは私たちの獣医さんでもあるお蕎麦屋さんに持って行って、水曜日がお休みで、おうどんの玉とかお蕎麦の玉とかが余っていたら皆交換で頂いたり、新保地区の方へ行きますと、魚屋さんが残った焼き魚を下さったり、また、それから採れたものを、子供たちが保育園幼稚園に行くと、採れたもの、スイカとかとうもろこしとかそういうものを子どものお友達のお母さんには差し上げますと、朝、地引網引いたから、魚網に引っかかったのを取りにおいでという電話を頂いて、それで取りに行くということもいたしました。今思えばとても豊かな生活でした。伊藤監督さんは、中沢先生は豊かだと、その豊かの順応性から脱却しない、困難である、とおっしゃいましたけれども、ここは豊かだったから、私達は受け入れてもらえたし、その豊かさのお裾分けの中で、私たち家族も暮らせて、その豊かに暮らすことの心の豊かさと、地域の豊かさの意味というのを、体で感じて教わることが出来たと思います。あとそれからもう一つ。水田地帯と、田んぼどころと畑どころがあって、丘のものも、海のものも新鮮なものが手に入って、ここは全ての物が活性化するための必要なものが基礎にあって、それが逆にゆったり暮らしていることで充分であるという居直りのマイナスになる面はあるかもしれませんけれども、それは、人の意識が変わることによって、どうにでもなることだな、という風に私は思います。そういう意味で好きです、ここは。

中沢

今おっしゃった、外から人を迎える広がりがある、ということについて後から私からも意見申し上げたいと思います。では、福嶋さん。

福嶋

福嶋でございます。まずちょっと自己紹介というか、私福井の駅裏の出身でございまして、伊藤監督と同じように、私も三国というと小さいとき海水浴に行く、という風なところ、というイメージしかなかったのですけれども、高校時代に、友人、高校の同級生が登校拒否になりまして、それで三国の牧場に行くから、そのお母さんが一緒に付いて行ってくれ、ということでその友達と一緒に伺ったのが、お隣の山崎さんのおけら牧場でした。確かに先程から福井というのは豊かな所、というお話があって、確かに私なんかもそういう感じでおけら牧場に行って、おまえら何甘えてるんだ、と、頭から水をかけられた、と。そういうのが、高校時代の三国に対しての思い出でして、それでおけら牧場のご主人の、一之さんと洋子さん、主に一之さんなのですが、そこで私予備校時代居候をさせて頂きまして、朝5時に起こされて、牛糞の堆肥を、生温い堆肥を袋に詰めさせられたりとか、菊の花を切らされたりとか、そういう作業をさせていただきながら、夜になると色々知的なレクチャーを頂きまして、何を頂いたかよく覚えてないのですが、ポイントは、お前ら浪人で大学に行くだろう、大学は辞めに行く所なんだ、という風な、よく分からなかったのですが、それでその後大学に入りまして、そして教え通り、大学を途中でちょっとリタイアしまして、それから東京の方でずっと、伊藤監督のようなちゃんとした映画ではなくて、いわゆる自主映画とか、或いは演劇、僕らのやっていたのはちょっと違いますけれどもいわゆるアングラ演劇、或いは美術の展覧会といった活動をしておりました。それで、今から6年前、だったと思うのですが、丁度父が、病気でもうあと半年ぐらいしか命がない、と。それまでこう、親不孝の限りを尽くしておりましたので、最後ぐらい何か、ちょっと何とかしなきゃ、ということで、拠点を東京から福井へ移しまして、それから親父はちょうど半年位で亡くなったのですけれども、ちょうどそれが、私にとっても転換期で、福井に戻る、東京と福井を行き来して、東京で会社をやっていたのですが、じゃあ何をするか、というところで拾っていただいたのが、三国だったのです。ちょうどそこで、地域ブランド、今のこの三国湊魅力づくりプロジェクトというのが、県の補助事業として認められまして、そこで、三国からコーディネーターというか、お手伝いをさせていただくという風なことになりまして、三国との、また次の係わり合いを頂きました。その時僕も漠然としてどうして、どういうお手伝いをすればいいか、というのは分からなかったのですけれども、まず三好達治さんが、三国にちょうど昭和19年から5年間、いらっしゃいました。そこで三好さんの色々本とか読むと、(スライド)三好さんが三国のことを、何と言っているか、というと、我が心の故郷、という風に、この越前三国のことを言われております。そしてですね、三好達治さん、昭和19年から5年間、三国の地にいたのですが、そこで心の故郷、と呼んでおります。そしてその三好さんがどういう風に今、脈々と、色んな意味で受け継がれているのですが、特に、(スライド)三国高校、先程伊藤監督から校歌、三国高校の校歌の3番なのですけれども、 望み遠かれ若人は 私が読むより皆さんに歌っていただいた方がいいかと思うのですが、 みどりが岡の松かげに 海はまどかにたたへたり ただひといろの藍青に 望み遠かれ若人は というすばらしいこの校歌を、しかもその時いらした小野忠弘さん、ちょうどそのいわゆるアバンギャルドというか、抽象画の小野先生、絵の先生、その小野先生が三国にいらっしゃいまして、三国高校の美術の先生を、ずっと何十年にも渡ってやっておられまして、その小野先生から強引に三好先生に頼んで、この三国高校の校歌を作られたという風に聞いておりますが、こういうすばらしい三好さんのものが、校歌に残っている、と。そして今ちょっと言いましたが、小野先生がずっと三国高校の美術の先生をされていて、特に不良というか、あまり勉強がやる気のない生徒さんなんかを、逆にかわいがって、その生徒をどこに連れて行くかというと、映画館に連れて行った、と。しかもその映画も、ちょっと訳分かんないぞ、というような、そういう映画とか、その時、まあ洋画なり、色々変わった映画館に連れて行った、とそういう風な話を聞いておりまして、そのいわゆる町作りをやっている方の、初め一緒に始めていただいた、というか、ずっと町おこしされていたのですが、そういった方々とお話していく中で、その人達の中に、三好さんのこういったいわゆるその文化的といいますか、文学的というか、そういった種であったりだとか、その小野先生のどっちかというと、一つの定規からはみ出る、そのはみ出るけれどもそっちの方が面白いんだ、といったような、三国の気風というか、やはり港町の色んなものが入っていて出て行く、またそういったものを受け入れる、そういったものを私感じる事が出来まして、それでこの活動に、わりとすっと入らせていただく、といったことが出来ました。それで(スライド)三国湊プロジェクトというのが出来たのですけれども、最初にご挨拶を頂きました松村代表、今は名誉代表でございますが、最初代表をしていただいた、ある種マニフェスト的なものがありまして、「今旅人よ、三国湊の風味の世界へ誘いたい。」それから色んな文章があって最後に、「今三国は、夢深きふるさとの三国として、胸中に眠る創意が動き出す。明日を生きる町、三国。旅人よ、一歩踏み込んで下さい。そこには私たちの心のふるさとが風味となって漂っている。」と。大変私、共鳴を受けまして、ここにもまた、心のふるさと、という言葉が、松村先生も使われております。それでですね、まず私このプロジェクトに何をじゃあお手伝いするか、といった時に、これが松村先生からの一つのお題だと思いまして、この風味、この三国の風味とは何か、とそれをですね、風味付けを、地元の方とまず見つけて、それを何かしていこう、という風に思いました。それで一年目はですね、山崎さんご夫妻とイタリアに行って、そのジェラート、それを作ろうというところで、そのジェラートの風味付けといいますか、その地域の農産物とか果物を使って、一つジェラート屋さんを作ろう、ということで、まずそのジェラート・カルナというのをお手伝いさせて頂きました。そして次にですね、(スライド)昔三国には、三國座、という映画館というか芝居小屋とですね、もう一個湊座、という芝居小屋、或いは普段の映画館がこういう風に二つありまして、この三國座、というこれと湊座というこれを一つのモチーフとしまして、(スライド)みんなが集まって、芝居とか映画とかを観たりとかそういったものを出来る、これは材木屋の倉庫で、もう埃だらけの所だったのですが、ここを、あんまり予算もなかったので、看板だけこういう風な感じにしまして、ここに三國湊座というのを、コーディネートというか、プロデュースさせて頂きました。普段は三國バーガーというそういうハンバーガーを売ったりとか、そういったことをしながら、ここで夜、映画を観たりとか、芝居なりコンサートが出来るような場所を作りまして、それで、(スライド)まず、その後「寿歌(ほぎうた)」という芝居を、これは三國座の横が空き地になっていましたので、ここにテントを張りまして、中に大漁旗を掲げまして、この芝居をやりました。中島陽典という、東京で何回か一緒に芝居を作った、俳優というか、演出家の方に、三国に滞在していただきまして、中島さんに私が言ったのは、まずその太郎を眠らせ、この三好達治の有名な詩ですね。これを一つのモチーフに、と。もう一個は、やはり何か心のふるさと、と三好達治が言ったこれを何か感じさせるような、そういう芝居を作ってくれ、と。そしたらこの「寿歌」という、これは核兵器で世の中に三人しか生き残らなかった、という北村想さんの戯曲なのですけれども、これの三国版ということで、三人が生き残って、リアカーを引いて、それで何もなくなった世の中で、自分たちの故郷である三国に戻る、三国に帰っていく、と、そういう風な芝居を作りました。これは登場人物が三人なのですが、一番手前のこの方、これはたつじどん、というたつじ役なのですが、この後先生方にも行って頂く魚志楼という料理屋さんのご主人、この方に、びっしり二ヶ月稽古して頂きました。その後ろの女性は、東京の若手の俳優さん、その後ろも東京で活動している若手の俳優さん。三人の方に三国で二ヶ月じっくり稽古をして頂いて、そして漁師の方に大漁旗をお借りして、仮設の劇場を、三日間だけ作る、という事をやりました。その次の年に、(スライド)「けいせい仏の原」というふうな芝居をやりました。これはですね、丁度この裏にある月窓寺という、月の窓の寺、という大変美しいお寺を舞台に、近松門左衛門が書いた歌舞伎、もともと近松は歌舞伎と浄瑠璃両方やっていますが、その歌舞伎の方の最高傑作と呼ばれる「けいせい仏の原」という、坂田藤十郎がやって、大変当たった、というふうな。これは三国の方はもう三国が舞台だった、というのをご存じない方が多かったのですけれども、当然その頃歌舞伎は口伝と言いまして、口で役者に伝えますから、戯曲というものは残ってないのですけれども、おぼろげながらそういうようなものだった、という様な事は残っておりますので、それを起こして、それをちょうどこの文化館、ここで、この劇場で、これもまた東京からの役者さん、演出家と、地元の方の出演者なのですけれども、ちょうどその混合チームで、ここで2日間、演劇をやらせて頂きました。ちょうど下の一番右のバカ殿役は岡田さんといいまして、皆さんご存知だと思いますが、今丁度岡田さん自身も演出をなされておりまして、子供ミュージカルの演出で、お隣の山崎さんのラボちゃん、そのイルカのミュージカルを作って、来週の日曜日ですね、福井の文化会館の方でやられるのですけれども、是非観に行って頂きたいのですが、そういう地元の方、或いは東京の若手の俳優でこういったものを作ってやりました。こういった活動を三年間やりながら、何とかちょっとは三好さんが言った、松村先生が言った、心のふるさとの風味、というのを、おぼろげながら、地域の方と今、作って来た、そういう段階かな、と思っております。私自身はそこから突如、大学時代の先生というか、舛添要一さんから、ちょっと大臣秘書として、ちょっと3か月位だと思うのですが、ちょっと出て来いという風に一昨年言われまして、よく分からなかったのですけれども出て行きまして、それから今、一年半、3ヶ月と言ったのが伸びてまして、大臣秘書官をやっておりますが、また任期が終れば、三国の方に、私としましては、帰らせていただきたいと思っておりまして、引き続きその風味付けというか、それを是非やらせて頂きたいと思っております。

中沢

ありがとうございました。今の三人のお話、私が何か付け加えることは全く無いのですけれども、たまたま先週だったかな、新聞とか週刊誌とかと打ち合わせがあって東京に行っていたら、ホテルのロビーで読売新聞を見ていたら、ご当地バーガーの記事が載っていて、佐世保のハンバーガーと、三国のハンバーガーが載っていて、あぁ、これはもう全国区になっちゃったな、という、何で私が我が事のように喜ぶのか、というのは変なのですけれども、なかなか楽しかったですね。実はね、今先ほど山崎さんの方から、港があって、外からの人を迎える気風がある、それはそうだと思う。大きな港、というのはそうなのですよね。小さな漁村の場合はまた別の文化があるのですが、大きな港というのは、例えばここみたいに、北前船が入っていた所というのは、例えば小樽であるとかですね、ああいったとてつもなく遠い所から、昔はですね、今と違う、昔はとてつもなく遠い所から人が来ていて、沢山の交易があると、そこに経済が生まれてくる訳ですね。大きな経済が生まれて来ると、それは新しいビジネスチャンスになって、どんどんビジネスチャンスが生れてくるのですね。そうすると、私こちらへ来たとき、こんなでかい港だったかな。必ず遊郭があったに違いないと私はこの西澤さんに聞いたのですね。そしたらあった、と。こちらは日本の遊郭で関脇ぐらいである、と。ランキングが。きっとそうだろう、と思ったのですね。つまり、うんと遠くから美しい女たちが、そこにビジネスチャンスがあるから来る訳です。そうするとまた別の地域の血がそこに入ってくる。別の言葉とかですね、別の物が入ってきて、どんどんどんどん文化が新しく豊かになって行くのですね。ですから、外の人を恐がらない、通婚圏、という言葉があるのですけれども、それは結婚をする範囲、というか地域、なのですけれども、そういう意味なのですけれども、私の生まれた群馬県などでは通婚圏、というのがものすごく狭くてせいぜい隣村、なのですよ。山越えたら通婚圏、というのはないのです、もはや。だから、外から来る人間に対してものすごい排他的なのですよ。よそ者、に対して。多分港、というのは、よそ者に対してある程度温かい。何ならば、よそ者であった連中が多いからです、元々。だから温かい。多分そう、そういうものだと思うのですね。それとですね、ここはすごいな、と思ったのは、あるシンボリックな物がある訳ではない。それがいいのですよ。あるシンボリックなものがある訳ではない。ランドマークがないのです。というのは、例えば、永平寺さん。永平寺さんがピークの60%しか観光客が来ない。それはそうだろうな、と私は思うのですよね。私は何度も行っておりますけれども、リピーターがいない。それはそうなのですよ。それは、永平寺の方には申し上げたのですけれども、あの門前町がある限り、人はあなたの所は好きにならない、と私ははっきり申し上げたことがあるのです。なぜなのか、ということは申し上げません。結局、永平寺さんにぶら下がって食べている、という時に、あの食べ方では、自らが永平寺たる、という努力はしない。前に私がいた、姫路工業大学というところに元々勤めていたのですが、姫路なんかが悲劇的なのは、姫路城があることなのですよね。世界遺産があるのです。姫路城という、みんな世界遺産にぶら下がっちゃうのですよ。自ら何かを作っていく、という思想を失ってしまうのですよ。既にあるから、立派なものが。皆それにぶら下がる。自らが、自発的に何かをしていく、という事が、あまりに立派なものがあると、そういった意思を持てなくなっていくのです。ちょうどこの町、というのは、歴史がある、文化の積み重ねがある、しかもそれが失われつつある、その最後のチャンスを掴んだ町である、という風に見ているのですよ。今の復活を見ていると。日本中、役所の補助金の関係もあるのですが、様々なところで町作りが行われていて、私が、商店街ぐらいだとせいぜい60箇所位ですけれども、色んな町作りの現場というのを見て歩いていて、7~80箇所見て歩いているのですよ。その中でうまくいっている所が幾つかあります。例えば大分の豊後であるとか、新潟の村上とか、幾つかあるのですけれども、おそらくこの町はベスト10に入っています。これで。すごいですよ。しかも可能性が沢山ある。それは、先程伊藤監督のおっしゃった、外からの知を迎え入れる、山崎さんのおっしゃった人を迎え入れる、そういった事だろうな、という風に思っているのですね。それともう一つは、何かを復活させるという時に、復活させるべき物がなかったらどうにもならない。私の育った田舎町、群馬県の田舎町みたいに、大正時代から遡っても何もない、という所では復活させるべき文化なんてないのですよ、これは。ないのです。そしてやはり、伊藤監督がおっしゃった、誇りを持つに値する、誇り高く、という言葉をおっしゃっておりましたけれども、どこかで自らに頼むという誇りを持てる根拠地みたいなものとして、ここはやっぱりしっかりしたものがあるな、という風に思っているのですね。今、御三人の方から一巡してお話して貰いまして、またお話しして頂くのですが、もう一時間経っていますので、そろそろ会場の方も聞き飽きていると思うので、ちょっとみなさんの方から、これだけは言いたい、或いはこれは聞きたい、どんな事でも結構ですから、多分顔見知りの方が多いと思うので、遠慮なく、手を挙げておっしゃっていただければと思います。どんな事でも結構なのです。今日は私たちがたまたま前の方に高いところにいますけれども、立場は一緒でございますので、どうぞご遠慮なく。 はい、どうぞ、どうぞ。今後ろからマイクが来ますから。お名前だけおっしゃって下さい、最初に。

聴衆

石田と言います。一つ、地名ですね、地名。地名というのは、私から言わせて貰えば文化財、だと思います。町名も歴史的遺産だと思っております。名は体を現す、ではないですけれども、地名から、色んな想像が広がってくる。三国町では、昔の名前が消えていますね。わずかに残っているのは、行政区画の名称として、行政が、いわゆる広報物ですね、広報物を配るのに、便宜的に使っている。それからもう一つは、三国祭りの山車がありますね。あれには、昔の町名が残っている。私はこれは、元の町名に直すべきだ、と。実際に地名にこだわっている所を例を挙げますと、例えば近くですと金沢市。金沢市は平成の11年から、古い、旧の町の名前を一年に一個ぐらいずつ、復活させています。今9個、九つの場所が、昔の名前に戻っています。今年ももう一つ復活するはずです。今度の4月の29日ですか、金沢市が主催するウォーク大会があります。この中の一つのコースに、旧町名を見て歩きましょう、という13キロのコースがあります。市が企画しての、ウォーキング大会。それからもう一つ、福井県で言いますと、2月の10日ですか、朝倉遺跡のある、一条地区で、ふるさと再発見講座、というのがあったはずです。ここでは、地名をよく勉強しましょう、という講座、朝倉遺跡のあの周辺の地名。地名の保存とか町名の保存。私は非常に大事だと思いますけれどもどう思われるか、ご意見をお願いします。

中沢

どうもありがとうございます。大変貴重なご意見、他の方の意見を伺った後、今のお話に関わっていきたいと思いますので、他に、どなたかいらっしゃったら。こういう時は遠慮しないで。こういう時遠慮するのが福井の人なのです、実は。で、AOSSAみたいなのが出来ちゃうのです、福井の駅前に。最悪なのですよ。出来ちゃうと誰ももう文句を言わない。福井のやつらは市長を辞めさせろ、と言っているのですけれども、それはちょっとこっちに置いておきますが。よろしいですか。もうちょっと考えてからまた、お話したいと思いますので、これでまだおしまい、ということではありません。 今の、旧町名を復活。地名は文化財である。全くそうですよね。例えば越前、なんて言葉がどんなに美しいかというと、例えば越前岬の水仙、というと東京のテレビなんかを見ていると、いいねえ、と、こんな感じになる。同時に、犬吠崎の水仙、こちら千葉県なのですけれども、やっているのですけれどもね、同じ水仙なのですけれども、越前岬の水仙の方が、可憐な感じがするのですね。地名というのはすごく大事ですね。その事について私ちょっと別の後で申し上げますけれども、今の事と関連して、プラスα、先程いい忘れたことその他ありましたら、伊藤さん、何かございましたら。

伊藤

本当におっしゃる通りだという気がしますね。もうどこもかしこも旧名、というのがなくなって、その町の、何と言うのか、今流行の言葉で言えば、アイデンティティというのですか、そういう存在証明がだんだんなくなっていく。私が今住んでおりますのは、いわゆる東京近郊の新興住宅地というか、そういう形で出来た、しかも埼玉県に属する新座市という所なのですね。新座、しんざと書くのですが、銀座じゃなくて、新しいに座布団の座。これなんかはやっぱり、本を正すと、座を「くら」と読んだ「にいくら」という履歴がありまして、朝鮮系の人の流れの中で、出来上がった地方でもあるのですね。そういう所がまだ残っておりますけれども、それなんかもですね、例えば今流行の市町村合併、なんていうことになると、例えばすぐ近隣にあります、田無市と保谷市という、これは東京都下なのですけれども、これが合併して西東京市、なんていう、何がなにやら分からないような事になるのはもう、大なり小なりあるわけですね。私自身も市の当局者じゃないので、どういう流れの中でそういう地名変更というのが簡便に行われるのか分からないけれども、本当にやたら簡単に簡便に、何の議論もされずに町名変更がどんどん行われたな、という印象を持っておりますので、端的に言えば、同じような感覚で町名変更というのを私自身も見てきましたし、やはり賛否を問われれば、私としても賛成、と言いたい気持ちです。

中沢

山崎さんどうぞ。

山崎

とてもいい意見だったと思います。私の生まれたのは石川県の小松なのですが、小松は子供歌舞伎をやっていまして、ずっと二百何十年伝統が続いていて、私たちも小さな頃から歌舞伎の真似をしたり、そういうのをやってきたのですけど、小松の町は、加賀の前田の殿様の出城で、隠居の町なのですね。ですから、本丸が公園のところにあって、小松高校は、お城の元のあったところに作ったのですね。だから、高校の運動場の中に、天守閣があるのです。天守台があるのです。そこがデートコースだったり、散歩道であったりするのです。一の丸が埋め立って高校が建って、二の丸のところに公園が建って、そこを抜けると鷹匠町、子馬出町、本大工町、細工町があって、それから私達のところは寺町で、寺町から広がって大文字町があって、龍助町、八日市町、それから三日市町、それから本折町。そういう風にずっと町の名前が広がっていて、昔のお城の町を作っていた通りの町が今も残っていて、そのまんま使われている。帰るとほっとします。それぞれの中で生きている跡というのが今も見えますし、小松の町の歴史が町名の中にそのまま生きているのですよね。それって、ほっとすることで、とても大切で歴史を感じますし、何か嬉しい事です。それから、先程のお二人のお話のように、中沢先生のお話の中にもありましたけれども、三国の町の根ざしている基、というのが、ランドマークがないとおっしゃいましたが、あると思うのです。それが目立たなくて、人の心の中に当たり前にあるので、とてもいい町になっていると思います。それというのは、私は龍翔館だと思うのです。元の龍翔小学校というのは、この町の北前船で栄えた豪商たちが、お金を出し合って作った学校です。エッセルという港湾技師がオランダからやってきて、防波堤を作った時に、彼に設計してもらって、木造の建物を建てたのですね。大正義務教育というのが盛んになった頃です。明治の終わりから大正、昭和の始まりにかけて、富国強兵で日本の人達の心が読み書きそろばんだけじゃなくて、本当に豊かな国になるために、子供たちの持っている自発的な豊かさを育てようとする教育が、日本中に生まれる。例えば福沢諭吉さんが慶応義塾を建てたり、大隈さんが早稲田を作ったり、新島襄さんが同志社を作ったり、そういうので学校が、色んな私学が出てきたのと同じ流れの中で、子供たちの自発教育を目指す、という、そういう教育の流れがありました。その時に、三国はお金を出し合って、大阪から三好得恵さんという、自発教育に優れた先生を招聘しました。それで、龍翔小学校の学校教育の中で、公の教育のなかで、子供たちの自発性を伸ばし、考える教育をおこなった。先程、伊藤監督が、想像性を伸ばせ。一にも想像性、二にも想像性、三にも想像性、とおっしゃいましたけれども、その想像力を伸ばす、という教育をやり始めた。そのシンボルが、龍翔小学校で、今はモルタルで、資料館になっていますが、あそこへ登られると、お分かりになると思いますが、真ん中が内運になっていて、周りが教室になっているのです。だから、子供たちは、周りの教室で授業を受けながら、真ん中の運動場に休みの間に出てきて、学年を超えて、遊んだり、色んな事が出来るという設計なのですよね。それが、この町の子供たち、今百歳前後になると思うのですが、先程教えていただいたのですが、明治の12年から大正3年まで、三十数年間ずっと建っていて、木造なので、潮風が当たるところなので、最後は風に当たってぼろぼろになってしまった、という事なのですが、そういう教育を、しかも公で、ここは自由教育のメッカとして日本中から視察の方が見えていた、という所なのです。だから、私たちの親の世代からちょっと前の世代の人達が、そこで学んできた気風というか、私は今も残っているのだと思います。もうお亡くなりになった方たちが多いのですが、そういう方たちのお話を聞きました。ちょうど大学時代は教育学部で、教育のテーマが大正自由教育だったので、子供の頃から海水浴で父が連れてきてくれていた所で、まさか三国に住むとは夢にも思わなかったのですけど、貰ってやってきたテーマが大正自由教育だったのです。三国の海水浴場は子どもの頃から父が連れてきてくれていた所で、まさか三国に住むとは夢にも思わなかったのですけど、貰ったテーマが対象自由教育で、やってきた所が三国という所でした。龍翔館や、今の南小学校に、そういう資料は少ないけど、残っています。それっていうのは、みんなの心の中に宿っている、誰にも胸を張って誇れる一番の、その人が生きていく基本の教育の根本がこの町にあって、それが私は町の人の心のシンボルになっているのだと思います。 先程福嶋君が、三国でやっている町興しを話してくださって、イルカのラボちゃんのお話もちらっと言って下さいましたけど、もう十一年前ですね。重油が流れてきて、それで三国の海が死んでしまう、という時に、ボランティアの人が全国から駆けつけて下さった。バケツと柄杓で海がきれいになった。それって、やっぱり世界に誇れる事ですし、それから、今にも死にそうなイルカを搬出して、世界でも例を見ない、イルカの赤ちゃんを救った。それを去年水族館の館長さんがお話を書かれて、絵をお願いされて描かせて頂きました。でもそれだけじゃないのです。それを本にして、福井新聞の新聞社が発行して下さって、それを今度はミュージカルにしよう、というお話で、企画をする方が現れて、脚本を書く方が現れる。そうすると今度は舞台美術を作る方が現れて、若い人達がいて、若い人たちがいて、テーマ曲を作詞作曲する人達が集まってきて、子どもたちに振り付けを教える先生が現れて、子供たちを連れたお母さんたちが集まってきて、子供たちもやってみようと言う。何か一つやり始めると、それに一つ一つ人が連なって集まってくるという、不思議な町なのですよね。しかもその中心は大学の中退組が多い。皆胸張って威張っていますが、大学を中退で、大学には関係なく、地域を作るため地域の軸になって、作っていくという、残していく、そういう気概の人達があちこちにいらっしゃいまして、一人一人の方達が面白いな、と思っています。それぞれがそれぞれの地域で自分の仕事をしながら生きていく事で、この町が成り立っている、そういう面白さがある。だから、町興し地域興しの原点は、私は人なのだと思います。そしてその人の財産が、この町にはいっぱいあって、しかもその元というのは龍翔小学校が代表してくれるような教育。先程先生は、経済が町におこったら、町が活性化していく、人が巣立っていく、とおっしゃいましたけれども、経済が豊かになっていくと、まず教育が変わってくる。その教育によって人が変わって心が変わっていく、という、ここはすごい財産を持っている所だと思うのです。

中沢

どうもありがとうございました。今の山崎さんのお話、それぞれに対して僕も感想を申し上げたいのですけれども、すばらしいご意見いっぱいあって。最後のところだけ関わらせていただきます。何かを始めると、人が集まってくる、という事なのですけれども、ボランティア、という言葉がありますけれども、あれは、ボランティア学会という学会があるのですね。それはどうってことないのですけれども、その定義があるのですよ。どういうことかというと、関係を求める自発性。そういう定義をしているのですね。ボランティアという言葉は元々、志願する。元々はもう、ずっと古い古代ローマの時代に戦争に行く、俺が兵隊になって戦いに行くよ、というそういうボランティア。志願する、志願兵、という意味がまず一つあるのですね。それとですね、うんと大きな英語の辞書を読みますと、最後の方にちらっと出てくるのですけれども、ボランティア、というのはですね、種を蒔かないのに自生した草花、という意味があるのですね。それもボランティアの意味。種を蒔かないのに自発的に伸びた、自生した草花、という意味があるのですね。そういったところから、関係を求める自発性、つまり何かをやって、そのことによって人と関係を作ろう、と。そういう自発性、それがボランティアなんだ。そういった意味で、この町の町作り、というのは非常にボランタリーに行われている。ただ私はですね、ボランティアはものすごく大事だし、それがスタートであるけれども、どこかで利益動機、利益動機というのは、どこかで小遣いぐらいにはなるよ、というそういうビジネスにちょっと関わった方が長続きする。それが私の意見なのですね。だから例えば、三国のソフトクリームや、バーガーを作って、幾つかの旅行社と手を組んでバスで来て貰う。それに、何もない芦原温泉が乗ってくる。こういうことで少しずつ、ビジネスに繋がってきている。これがものすごく大事なことだと思うのですね。ボランティアは勿論基礎である。しかしそれが、人との関係を作っていって、ビジネスに繋がりつつある、というのがもっと素晴らしいことだ、というのが私の遠くから見たこの町の印象なのですよ。今他にも山崎さんのお話と伊藤監督のお話を聞いていても、私なりに是非言いたい、ということはあるのですけれども、ちょっと止めておいて、その前に福嶋さんの方から、先程の続きでも、別のことでも結構ですので。

福嶋

はい。ちょっと視線を変えまして、厚生労働、今大変大きな課題を抱えておりまして、というか本当に厚生労働省というのは、子供が生まれてからお年寄りになって亡くなるまでの全部の領域を厚生労働省というのは今、やっておりまして、これはもう殆ど無理、なのですけれども、特にご悲観を多く頂いているのが、後期高齢という、いわゆる75歳で背水する、という事と、今やはり介護ですね。介護。そこのところのご批判をいっぱい受けております。これはやはり財政とか、実際にはそういった問題が色々あるのですけれども、やはり基本的には、これから日本がどういう風にやっていくか、というところのすごく本質的な問題を孕んでいるのではないかと思います。先程私父が悪くなって帰ってきたという風に申しましたが、結局うちの父は、最後病院でいわゆる管を付けられたまま、癌でそのまま亡くなったのですけれども、人が死ぬ瞬間が本当にそれでいいのか、という風な事も含めて、やはり後期高齢、介護の問題、最後に自分が亡くなる時のそういうのをどういう状態で迎えたいのか、或いは迎えさせてあげるのか、送るのか、とそういう所が、今の日本の中で、一番大きな問題じゃないかという風に思っております。それで今私そういったところを含めて、おぼろげながら、なのですけれども、先程申し上げましたように、心のふるさと、とそういったところにやはり繋がってくるのではないか、と。勿論家族であるとか、亡くなる時に看取る、誰が看取るのか、というのも大変大事なのですけれども、やはりその家族という事だけではなくて、やはりこういう地域、或いはそういった町とか、そういった所に、視野をこれからは移していかなければいけないのではないか。そして伊藤監督がこの三国へ帰る、という風におっしゃられたのですが、その帰る、というのは、一つのワンウェイ、というか直線的な帰る、ということではなくて、いわゆる環境の環のように丸く、帰る、というか帰って又出て行く、とかそういった直線的なイメージではなくて、こう回る、というか、帰る、というか、そういったことなんかも大変大事なんじゃないか、と。そういった意味で、三国というのは、心のふるさと三国、というところで、色んな深層的なところで可能性を秘めているのではないか、と。そういう風に私は思っております。先程地名の問題も含めて、そういったような試みも是非させて頂きたいという風に、私は思っております。 中沢 どうもありがとうございました。地名の問題ですけれども、地名がずっと残っているのは、典型的に奈良県なんかがそうなのですね。古代からずっと繋がっている名前が皆残っている。全国、あれ自治省と郵政省が一緒になって、町村合併その他のときに、勝手に。例えば東京で言えば御殿山なんていい名前があったのに、そこが北品川3丁目、なんて訳が分らない。何が北なのか、というと、駅なんかが中心となって北になっている。北のすぐそばに南があったりする。滅茶苦茶な町名になっちゃったのですよね。つまり、地域の記憶を失ってしまったのですね。東京都でいうと牛込とか、昔の名前が残っている所はあるのですけれども、旧町名を復活させる、というのは幾つかの所でやっていますけれども、本当に大事な文化財をもう一度掘り起こすものだと思って、そういったご意見本当に大事だな、という風に思っております。ところで、先程は一人の方しか手を挙げませんでしたけれども、他にこれだけは言っておきたい、どんなことでも結構ですので、会場の方からご意見頂きたいと思うのですけれども。どうぞ。皆仲間みたいなものですから、気にせずにご意見下さい。どうぞ。宜しいですか。分かりました。はい、どうぞ、どうぞ。そのマイク使ってください。最初にお名前だけおっしゃって下さい。

聴衆

春夏秋冬で、ウォーキングラリーみたいな企画を作って、三国の住民が、参加された人が、三国をプレゼンテーション出来る位の士気を植えつけたいと思っているのですが、いかがなものでしょうか。

中沢

あのね、それものすごく大事なのですよ。地元を人が歩かなくなっていくのです。ですから、意外と自分の町を忘れちゃっているのですよ。習慣的に歩くようなところがあって、人間というのは猫とよく似ていて、慣れている所しか歩かないのですよ。だから、今おっしゃったように、こっち側に住んでいる人はこっち側しか知らない。こっち側に住んでいる人はこっち側しか知らん。子供のときにしかあっち側に行ったことない、なんて人多いですから、この町歩きをする、というのはとても大事なのです。地域の活性化をやっている所で、町歩きから始めた所というのは、とても多いですよ。だから、是非おやりになるといいですね。そういうのをおやりになる時にすごく大事なことがあるのですよ。それは、みんなでやる、という事を諦める事。みんなで、と言っていると何も始まらない。この辺は理解が無いから、とかっていう話ではなくて、三人いれば十分である。やれる人だけがやる。こういう事で始めないとだめなのです。みんなで、と言っていると、100キロ先の信号まで全部青くなってから始めましょう、という話になっちゃうから、永遠にスタート出来ませんから。是非何人かでおやりになる事をお勧めします。どうぞ、山崎さんどうぞ。

山崎

是非歩いてください。それで、今東尋坊から安島から海岸沿いの松の木が、どんどんどんどん枯れていって、それこそ核戦争の後みたいに、無残な姿がずっと連なっているのです。色んな所からお客様がお見えになってご案内すると、あれ一体何、と。東尋坊の景観が、美しくて見事だ、というのが一体どういう事なの、って言われて、私達赤面して言葉が出ないので、出来るところから、プロジェクトの皆で、三国の海岸縁に植林をしていこう、という動きを始めたのです。でも実は片側は国定公園で、文化庁なのかな。それで法律の問題、県の問題、地域の問題にぶつかって、今大きな壁なのです。是非皆様歩いて、松林、松はカミキリムシが運んでくるマツノセンザイチュウの害で、どんどんどんどん枯れていって、去年より今年はもっとひどい状態です。松の先が赤枯れていると、根っこがやられています。来年もっとひどい状態に、ほとんど全滅寸前になっていくような状態で、ですから、是非歩いて見て下さい。その中でどうしたらいいか、一本でも植える、或いは松の下に広葉樹林を植えることによって、防風林、つまり砂を運んでくる風を和らげてくれる、それから水を保水してくれる、そういう役割をする木を植えていく。ほおっておくと自分たちの地域の日常をも侵されるような結果になっていくので、是非歩いて見て、海岸一体の事をこれからどうしていったらいいか、地理の再生にご意見と労力を貸してください。三国のプロジェクトのこれからの課題だと思っております。先程福嶋君の福祉の問題ですけれども、うちはおじいちゃんが95歳で、体は健康なのですけれども、足が悪くて歩けなくてベッドで寝たきりで、在宅看護なのです。それで、ヘルパーさんに来ていただいて、デイケアでお風呂に入れていただいて、そのお陰で私はこういう時間もこうやって参加させていただいて、それから町おこしのジェラート屋さんで働く事が出来るのですけど。在宅介護をやる時に、ヘルパーさんや福祉の応援がなかったら、とてもこういう事は出来ません。そのお陰で、より充実した介護になって、ただ病院で命を終えるのではなくて、その人が生きてきてここで暮らしたい、という所まで、最後まで出来たらいいな。うちのおじいちゃんも一緒に開拓をやってきて、私たちがここまで来られた一人の仲間なので、やっぱり最後までやるべき事はやりたい。頭にくることは一杯あるのですがやりたい、と思っていて、そういう様な事が出来る町に繋がって欲しいな、と思っています。

中沢

すばらしいですね。伊藤監督。

伊藤

はい。私も一番最初、一人で話をさせて頂く時にも話題の一つにしようかな、と思っていた事がやはり、ナホトカ号事件に関わるボランティアとまた、実際にそれを受け入れた人達の物語ですね。先程山崎さんのお話でも、また色んな形で検証されていると伺ったわけですけれども、これもまた一つの何というのか、今日本中の、やはりある種住民と、そして何かそういう事があったらば、というような動機を持っている人達の共通の一つの関心事である訳だし、さらにそれは一つの未来形、というかそういう形でも十分ありうると思うので、この経験の確かさ、というのを色んな形で全国的にも発信していく、というのか。勿論、ボランティアに来た人達が何度か、かつてはこうだった、という記念碑のあるあの風景を眺めに見えるということが数多かったのか、意外と数少ないのかは存じませんけれども、そういう追憶ということではなくて、新しくありうるべき経験の原点に立つ、という意味でも大事な事だろうと思います。それと、もう殆ど最後になると思いますので言いますけれども、やはり私が海水浴に来たついでに必ず夢中になってカニを捕ったあの突堤ですね、あれもおそらくどこかで三国の住民の方たちが気付いて大事にしなくちゃ、という事になったからこそ、今全町民の、或いは行政の方でも意識せざるを得ない形になっていると思うのですけれども、私も長いことオランダ人技師のエッセルという名前は知識としてあったのですけれども、そのエッセルが、だまし絵で世界的に有名なエッシャーの親父さんであるということは、エッセルという名前では想像つかなくて、後から仕入れた知識としてあるわけですね。そしてこれが先程山崎さんのお話にも出た龍翔館、というシンボル。この二つというのは、やはり私もインターネット時代ですから、観光客呼ぶにももう東京大阪名古屋を通してじゃなく、直接外国人観光客を受け入れる可能性もあるぜ、というような議論もよくあるのですけれども、それはそんなに先を急いだり、来てもらっても果たして困っちゃう、という事もあるかもしれないので、その事までは言いませんけれども、世界のある種の関心を呼ぶ一つの材料でもあると思いますので、突堤と龍翔館というのは、そういう一つのシンボルにもなりうるのではないか、という風に思います。 中沢 どうもありがとうございます。福嶋さん。

福嶋

はい。先程のナホトカ号の話で、あの時手渡しでバケツリレーというので重油を汲んでいきました。それでそれに沿って、去年丁度ナホトカから十周年、十年経って、ということで、新たに三国で緑のリレー、手渡しリレーから取って、緑のリレーというプロジェクトが始まっております。先程山崎さんがおっしゃられたように、海岸縁の松食いをどうしていくか、というところで今、ささやかながらやっておりまして、来週22日、それについてのシンポジウムもありますので、是非来ていただいて、その一番の問題は、今風景の履歴という風に書いておりますが、結局その海岸縁の松、というのは、ある人にとっては一つの風景の履歴というか、すごくそういうことなのですけれども、果たしてじゃあ松枯れの後に松を植えるべきなのか、それともそれ以外の木を植えるべきなのか、それとその人々にとっての風景の履歴というかそういったものがどうなのか、そういったところでかなり色んな課題が、当初思っていたより、ただ松枯れを取ってそこに植林をすれば良いんじゃないか、という事じゃない、そんなご意見あります。そういったものを皆さんで議論していきながら、緑のリレーのプロジェクトなんかも進んでいったらいいな、そういう風に思っております。

中沢

ありがとうございます。山崎さん、最後に一つ、何かありませんか。もういいですか。分かりました。ということで、一通り、こちらの側からの発言はおわりましたので、本当は私のような立場の人間が、まとめというのをやるのが普通の進行なのですけれども、今日は特別まとめねばならない話をしたわけではないのです。ですから今日の話の中から、皆さんが掻い摘んで、あぁ、あの男あんな事言っていたな、とか、あぁ、あの女性あんな事言っていたな、位の事を記憶に残していただければ大変ありがたいと思います。2時間というのは長すぎる、という風に私最初に申し上げましたので、1時間半で、これで終了したいと思います。どうも長い時間ありがとうございました。

総合司会

中沢先生、パネリストの皆様、大変有意義なご意見を数多く、ありがとうございました。また、会場の皆様からも、大変に貴重なご意見を活発に頂きました。ありがとうございました。それでは皆様、今一度、パネリスト、司会の先生に、盛大な拍手をお願いいたします。ありがとうございました。以上を持ちまして、本日のプログラムは全て終了致しました。閉会にあたりまして、NPO法人三国湊魅力づくり副理事長、大和久米登より、お礼のご挨拶を申し上げます。

大和

それでは、最後にあたりまして、お礼のご挨拶を申し上げます。今日は皆さん、お寒い中おいでいただきまして、また、長時間に渡りましてご公聴頂きまして、本当にありがとうございました。我々この三国湊魅力づくりプロジェクトですけれども、町作りと環境保全、そして文化の創造、というこういう三つの目的を持って活動していますけれども、今日は町作りということで、このようなフォーラムを開催させて頂きました。その中で、司会を担当して頂きました中沢先生、本当にありがとうございました。また、伊藤先生、遠くから本当にありがとうございました。また、いつもの町作りの仲間の洋子さん、そして今、三国湊から、永田町の方に出向しているてるちゃん、本当にどうもご苦労様でした。ということで、この我々の町作りなのですけれども、一つの裏面はですね、この町の歴史文化風土、そういうものを敬愛して、誇って、そういう中に暮らしている事を快適に思う、そういう人を増やしたい、というのが一つの裏面なのですね。それでもう一つは、さっき中沢先生言われましたように、その中に何らかの産業であるとか活力、そういうものの采を見つけていこう、とこの二つを目標に、この裏面として活動している訳ですけれども、今日のお話の中に、そういうヒントがいっぱい隠されておりましたし、またご指摘を頂いたこと、本当にありがたいな、という風に思っています。その中で、我々のこの町にはランドマークがないとか、混在する町である、というような言葉も出てまいりました。この町の形だけでなくて、さっき洋子さん言いましたけれども、色んな人が色んな活動をされていまして、この町作りにも、絶対的なリーダーというのはいないのですね。このプロジェクトのリーダーは西澤さんですし、商工会のリーダーは笠島さんですし、またボランティアガイドにも、前の寺岡さんをはじめ、今の郷家さんとか、色んなリーダーの方がおられるのですけれども、それぞれの立場で色んな事をやっている。その集合体が今のこの活動の、ちょっと活力が上向いてきたかな、というのに結びついているのではないかなという風な気がしています。それが、絶対的なリーダーがいる長浜であるとか、笹村さんという絶対的なリーダーがいますね。それから小布施には市川さんというリーダーがいますけれども、そういうような町は、なんか僕ら側から見ると、ちょっと町作りのあり方が早急過ぎるのではないかな、というような気がしています。いわゆる張りぼてみたいな。これが長続きするのかな、と言った場合には、きっと我々の三国のように、うさぎとかめではないですけれども、じっくりと皆の想いが積み重なって作られている、そういうものが本来の物なのではないかな、という風に感じているところです。また、その中で少しずつ、我々の町というのは色んなものを失っていきました。最も大きいものは自治権だったと思うのですけれども、先程、三国を中心にして丸岡の、またあわら金津の、という事があったのですけれども、我々の町の題材を持ってすると、勿論、そういうような意識を持っていくことは当然だな、という風なことを思って勇気付けられた次第です。そういうような意識を持って、8月の終わりから9月の初めにかけて、きたまえストリームという事業を、これは4年に一回やろうと言っているのですけれども、それを今計画中です。それにはまた、こういう様なシンポジウム、その時には東大の西村先生という都市工学の方を中心にした、そういうようなシンポジウムになるだろうと思うのですけれども、それと、郷土芸能工芸物展、全国の港の北前船時代の芸能をやっているところから色々来てもらおう、というのもやろうと思いますし、また、一番大きいのは、回遊業。この町に来て頂いて、この町を歩いて頂く。そういうのが一番大きな事業でして、その中には、町名復活の事も踏まえて色んな昔の町名であるとか言われであるとか、そういう物を表示した一大イベントを繰り広げていきたいな、という風に思います。これは本当に皆さんの力で、この色んな分野の皆さんが結集してやって頂けると本当にありがたいなという風に思っています。しかしながらこれはあくまでもイベントですから、目的は、普段のこの町の活力がいかに少しずつステップアップしていくか、という事をしっかりと踏まえながら、そういうこともやっていこうと思います。その事業はこのプロジェクトが参画する、歴史を生かすまちづくり協議会、そしてその母体となった商工会、そういうものが中心として行われると思いますけれども、皆さんでそういう事をやりながら、また、こういうしっかりと考えることもやりながら、ずっとこの町を更にそこを固めてステップアップ出来たらな、という風に考えております。非常に結びの言葉と言いながら長くなりまして申し訳ないですけれども、本当に今日はありがとうございました。

総合司会

以上を持ちまして、三国湊歴史を生かす街作り文化フォーラムを終了させて頂きます。会場の皆様、本日は本当に長時間に亘りご参加頂きまして、真にありがとうございました。どうぞ皆様お足元お気を付けてお帰り下さいませ。本日は本当にありがとうございました。

page top

HOME

おうちでも三国湊 おとりよせ WEB SHOP

魅力づくり・にぎわいづくり・まちづくり

味・三国湊きたまえ通り
ジェラート&スイーツ カルナ
三國湊座
カフェ タブノキ
ツーリズム
街中散策・レンタサイクル・クルージングは一般社団法人三國會所のWebサイトへ
文化・歴史・アートへのとりくみ
イベント・シンポジウムなど
アートプロジェクト
三国湊の路
上映会・お芝居
日本風景街道
「三国湊のまち・海・みどり・そしてひとを結ぶみち」
エコへのとりくみ
三国湊こどもエコスクール・
WSなど
みどリレー
ナホトカ号重油流出事故から10年「三国湊型環境教育モデルの構築・普及活動」
ものづくり
荒磯染
陶芸ひとひろ

よみものページ

歴史文化・自然
三国の魅力:特集記事
連載・コラム
つれづれダイアリー
Hanaちゃんのみくにな理由
コマイヌソムリエ
NPOメンバーBLOG
Mr. Uede BLOG
三国湊自惚鑑・新"ほやとこといの"
Mr. Kasashima BLOG
越前三国湊の散策日記
Mr. Sumi BLOG
musicマスターのつぶやき
お知らせ
お問い合わせとアクセス

三国湊魅力づくりPROJECTについて